ジージャー・ヤーニン応援ブログ

いいえ、女優ジージャー・ヤーニンを応援するブログですとも。

一青窈さんのこと

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映画「チョコレート・ファイター」に惹かれるのは、もちろん、ジージャーに惹かれるからです。
そしてまた、彼女の演じる自閉症という障害に私自身か強く関心を持つからなのでしょう。
自閉症の世界を伝えてくれる彼女のことを応援したいと思います。
これはとても稀少なことだからです。
自閉症の世界を想像することは、こころの痛みに向き合うことなのだなあ、と、つくづく思うときがあります。
この「痛み」としっかり向き合うためのいくつかの方法の中でもっとも優れるものは、ほかでもありませんが「コトバ」を知ることだと感じています。
ヒトはヒトの言葉にのみ傷つきます。
自分を傷つけるのは他人や現実ばかりではありません。
現実を「これはこのようなことだ」と説明し自分の脳に伝えて自分を苦しめるものもまた、自分の「言葉」です。
このことは、とても難しく深い問題だと思います。
この「痛み」を癒すものに依存してはいけません。
闇は、夜のふりをして装うものですが、それでも闇は闇。
光を嫌うものを誘惑する、明日の来ない世界に惹かれてはいけないのです。
障害のある人間との生活は、絶望に満ちています。
だからこそ尚、その絶望を凝視して固まってしまう自分であってはいけないということです。
長く「火」を眺めていると、その火に心を奪われてしまうものです。
言葉が失せるからです。
その瞬間に自分を安楽に導くのもまた「闇」なのだということは、しっかり覚えておくべきことでしょう。
痛みを売り物にしてはいけないのです。
他人にも、自分に対してさえも、です。
身の回りには、痛みを抱えるヒトが増えています。
今年は友人の鬱の行動療法に、台湾旅行に二度ほど行ってきました。
また、自分のために故郷にも旅行に行ってきました。
もう、誰もいないふるさとです。
尋ねてしまえば痛みばかりが溢れているのですが、向き合うべきだと敢えて行ってきた次第でした。
それでも、旅行は私にとっても楽しいことなのです。
空気が変わります。
高揚があります。
台湾は韓国や香港とはちょっと違った種の活気に満ちていて、とても「元気がもらえる」場所でした。
人々がほんとにおせっかいなくらいに当たり前に優しく人情味にあふれ、生きることの現実を積み上げて行くバイタリティーを与えてくれました。
恐る恐る尋ねたふるさとの思い出の景色たちは、改めて、わたしに帰る場所を模索させてくれました。
あきらめていた「帰る場所」のことを、です。
痛みの先にあったものは、優しさでした。
そして気付きました。
優しさは、いつも何の鑑も持たずにむき出しに手渡されるものなのだなあ、と。
ある良識に富む知人が、障害の重い子供のことを、生活が普通におくれないくらいに疲弊し心中や自殺を考えるほどなら、施設に預けたほうがいいとアドバイスしてくれます。
それはとても親身で親切なアドバイスであって、よく現実を踏まえた言葉だと思います。
でもほんとうのところ、これではなにも変わらないのです。
それは「優しさ」ではないからです。
痛みに向き合うことは闘いに違いないでしょう。
逃げられない闘いです。
そういう時間をすでにずいぶん長く過ごしてきたのですが、そんななかで、こころの底から痛みに向き合うあるアーティストに出会いました。
一青窈さんです。
彼女のうたには、何気ない言葉の繋がりの中に生と死への洞察が深く潜んでいて、はやりうただとタカをくくってしまえば聞き逃してしまうものが多々あります。
マスコミ評や彼女の明るく奔放な面に気を取られてしまうと、彼女の深い心象に気付かずにいてしまうことでしょう。
一青窈さんのうたは、深い「痛み」との向き合いの中にある「言葉」に溢れています。
優しさに溢れているのです。
大切な思いを伝えるほんとうの「言葉」は、大切にされるべきものでしょう。
彼女のことついても、ちょっと触れていきたいと思います。