ジージャー・ヤーニン応援ブログ

いいえ、女優ジージャー・ヤーニンを応援するブログですとも。

シン・エヴァンゲリオン劇場版 2

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なんだか導かれるようにエヴァを見に行くことになりました。
ネタバレ、みてません。
ネットでよくみかけるような、高尚な考察も持ち合わせません。
それでも、25年の物語のひとつの結末をなぞる思いは深くて、しばらくするとどうにも、勝手に涙が流れるのですね。

いま、考えればそれは、シンジくんの絶望や、登場人物たちの置かれた環境にシンクロするものがあったのでしょう。

ただ、やがて物語がすすむと気付くのです。
いいトシをして、とも思うのですが、これ、その(いいトシ)の人間の、そしてその人生のそれぞれの季節の物語でしたね。

楽しみながら、感動しながら見せてもらいました。
劇中、惑星大戦争のテーマや、東宝の特撮の撮影のようなセットを模した場面や、過去のキーオブジェクト、伏線回収、思いの深堀りと、どれもこれも、自分の世代に近い人間の文化でしたが、20くらい若いヒトには、ひとつの(提案)として、ユニークに思えたことでしょう。
セリフの中で、AAAヴンダーから種子が打ち出されるとき、Lファイブ、という言葉が出てきて驚きました。
グランジェポイントファイブ、軌道上7つあるポイントのなかで、唯一安定するポイントのこと(スペースコロニー構想のころに世に出たコトバです)ですが、どうしてこんなこと、知ってたのだろう、と。
で、ああ、これはやっぱり、自分の世代(庵野さん、60ですから、同じといったら失礼ではあるのですが)のお話なのだなあ、と察したのです。
たぶん、渚司令、というのは後出しジャンケン(笑)だったのでしょうけど、それでも、ああ、その立ち位置、つまりはシンジくんにとって、その身と同じであり、そしてなお違い、見守るものであり、シアワセを押し付けるものなら、なるほど、親の化身か、とは思うのです。
よく考えたら、宇多田さんの(桜流し)のなかにもう、親という身のどうにもならない痛み、ということを隠した歌詞が出ていました。
その時点でもう、母だけではない、父もまた、なにより、息子にもっとも映し身をおもう存在だったのだ、という物語りを抱いていたのでしょうね、監督は。
すばらしい映画でした。
わたしはややもすれば、ああ、やっぱり父もまた親だ、と、感化されてしまったことでしょう。
で、そうならないように、鑑賞に先立って(それはそれ、オマエの問題はまた違うことを覚えておこう)と、運命から仕込まれたような気がしているのです。

わたしの戦いは、現実にまだまだ終わりません。

ヒトを信じること、ゆるすことはやっぱり、悪意に水をあげて成長させることでは絶対にないんだ、とは思います。

では、どうしたらいいのか、どう考えたらいいのだろう。

わかりません。

まだまだ、あがくばかりです。

ただ、そうしたなかでなお、オマエは決してひとりでは無いのだよ、と、ずうずうしくも、この映画に教えてもらったような気がしています、いいトシして、なのですが(笑