ジージャー・ヤーニン応援ブログ

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あなたに、「物語り」を。

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ふと、おもうのです。
コトバによって発せられるものはすべて、そのひとの「物語」なのではないかなあ、と。
繋がろうとするために用意される、自分を伝えようとするすべてが実はそうで、ただ正しく事務的に、無機質に、と望むときでさえ、それは「物語り」です。
すべては、「ことだま」なのでしょう。
挨拶も、ため息も、取り繕いさえも、です。
ひとはみんな、その「コトバ」の中で生きて、コトバによって変わり、コトバでもって繋がって行きます。
それはもちろん、言語としてのコトバである場合が主なのですが、たとえば意志の込められたあらゆる「顕れ」もまたコトバですから、絵も音もカタチもすべては「物語」ということになるでしょう。
たとえば見たことも経験したこともない聖書の譬え話に感動して人生が変わったりするように、ひとは感動することで、つまり「物語」の影響を受けることでその人生を深くします。
世の中は、ヒトで満ちてきました。
ということは同時に人類の経験したどんな過去の時代にも、これほどの「物語」に満ちた時代はかつてないのだということでもあります。
その意味では、現代は「神話の時代」だとも言えるでしょう
たとえば映画というものは、たくさんの人生の疑似体験そのものだとも言えます。
作り物の世界を楽しむ体験。
でも、こころは映画から受けた衝撃によって実体験している。
小説にせよ、マンガにせよ、音楽にせよそれは同じこと。
だから逆に言えば、たくさんの映画を観る人生に、たくさんの感想を持とうと思わないのなら、映画そのものを観る意味なんて、言い換えれば「生きていくことの意味なんて」その実はないのだということにもなってしまいます。
カメラの向こうのことだから、たくさん人が殺されても爽快なだけだとか。
フィルムの中の未来は変わらないのだから、不幸はしょうがないことだとか。
欠片ほどでもそんなふうに思うのなら、そんな哀しいことはありません。
それは、かわいそうなひとの反応です。
ゴミくずのように、無意味にポイっと捨てられるのを待つひとの仲間入りです。
そんなふうにこころが壊れてるひとは、その自分に早く気付かなきゃいけないし、何が壊れてないことなのかを探さなきゃいけないでしょう。
壊れて治せないほどに悲しいのなら、それは癒されなければいけないし。
どれもこころからこころに繋がる仕事。
人のこころは、その人の喜びや悲しみを語りたいと願うもの。
そしてその人の人生もまた、その人の物語にすぎないもの。
だからもし、誰かの物語を「ただの作りごと、くだらない経験だ」と言うのなら、それは生きることを、自分の人生そのものを否定していることと同じになってしまう。
壊れてしまう、とは、そういうことで、そんなふうにしか「生きる」ということを考えられなくなってしまうことだと思うのです。
運命のひな型、ひとのこころの原型を、小説や映画で知らされるときがあります。
ヒトはその経験に感動するのです。
ほかのさまざまな手法による作品という宇宙にも、同じように感性の深さに応じて同じことを見いだすことは出来るでしょう。
絵画や陶芸や、さまざまな芸術が、時を超えていろんなことを語るのです。
ああ、世界はなんだか、ステキかもしれませんね(笑)。