長男
友人である美容室の店長に、「鬼滅の刃」の物語が画期的ですよと語っていたのですが(ゴールデンカムイ、かぐや様は告らせたい、ともども)、昨日、このことへのツッコミがありました。
いわく、15巻まで読んだのですが、「鬼滅の刃」、ジャンプ的なおもしろさはわかるのですが、画期的ってどこらへんがですか?と。
ソレへのわたしの回答は、たとえば主人公の頑張りの糧が、セリフの中で「長男でなかったら」とか出てくるのだけど、そんな感覚、いまはもう誰も持ち合わせない、理解できないことだろうし、学ぶ機会もないこと、そういう家族のほんとうの絆とか、大正という微妙な時代の設定とかの掛け合わせが画期的だとおもうんですよね、でした。
はあ、という感じで(笑)共感からはほど遠い反応でしたが、実に、わたしの胸をうつのはそういう、ヒトがスルーしてしまいそうな、このお話のいろんなところに散りばめられる「思い」についてなのです。
大ヒットとなった「紅蓮華」、この作詞はLISA自身によるものですが、この詩のなかに、その「思い」はそのまま反映されていますし、画期的ということを伝えるに、わたしの言葉の足りなさを補ってあまりあるものを見出し感動します。
届こうと届くまいと、届けねばならないこと、決意も使命もこえて、血肉をなおこえてみずからを「すすめ」と追い立てる思い。
その理由が、なんと、あたりまえだから、なのだ。
そんな炭次郎を見てきたねずこの、そのなかにある理不尽への痛みの共感こそ、ある意味、この物語の語りたかったすべてだったんじゃないかなあ、と、わたしには思えるのですけれど、、、、。