ジージャー・ヤーニン応援ブログ

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劇場版 マジンガーZ / INFINITY

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ヒトのなかに蒔かれた「正しさ」を求めよう、というコンテンツの種は、時代とともに複雑かつ高度な構造を担う体系として
成長し、根を張りだします。
ある意味その「物語」というコンテンツたちは、聖書の示唆よりも深いものだったするのですから、なんとも複雑です。
そんな「物語」のなかには、主人公に向けて「お前は神にも悪魔にもなれる!」とチカラを託され、そのうえでなお、葛藤のすえの姿として主人公が善を担うという結論に達し、それに命を懸けていく、という姿を描いたり、と。
聖書にあってさえ、神にも悪魔にもなれるのなら、などという「問い」は存在しません。
日本人は、幼少期においてこうした深く優れた「精神を高揚させる」物語に、自由に触れることを許されたうえで育っていきます。
世界中の子供たちが、おなじように「思い、考える自由」を許されて成長していくのか、といえば、実はそうした例こそ稀であって、ほとんどの世界では思想のコントロール介在は当然のこととして成されていて、考えてはいけないこと、触れてはいけないことというのが、徹底した刷り込みによって調整されているのです。
洗脳の逆が、優れたコンテンツに触れ、自分なりにその物語を解釈し思うことだとするのなら、優れた物語というものが、いかに大切なことなのかということが想像できるのではないでしょうか。
そうした優れた物語のひとつ、永井豪先生による「マジンガーZ」は、生まれてそののち、2次創作的に扱われることによって数倍の深みを帯び成長していき、今日なお連綿と扱われ続けている驚くべきコンテンツです。
この物語が到達したい先、この問題への解のひとつは、真マジンガーZEROによって導き出されているように感じています。
真マジンガーZEROは、物語のその終盤、コンテンツを生み出そうとしていくひとびとの想像のチカラが、決められた世界の運命を凌駕していく様を描いて幕を閉じます。
追ってご紹介する「デビルマン」においては、登場人物たちが「正しさと思われていることは、ほんとうに正しいことなのだろうか」という、より深い問題に葛藤する世界を描いているのですが、その実、マジンガーデビルマンも、おなじテーマのそれぞれの側面を別なかたちでなぞっているだけなのだと思います。
その、一方の要、マジンガーZが、劇場版新作として公開を控えているのですが、この物語、テレビ・原作の続編の立ち位置からの物語なのだとのこと。
先述のとおりこのマジンガーの世界観は、2次創作以降のほうがより深く出来ているのですが、それでもなお、続編の位置にこだわるというのなら、それもまたおもしろいのかもしれませんね。
おそらくは、この物語にもっとも触発されるであろう客層は、40~50代です。
そうしたひとたちに向けてなら、その2次創作は通じませんし。