ジージャー・ヤーニン応援ブログ

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皆はこう呼んだ、鋼鉄ジーグ

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つくづく、日本発進のコンテンツの影響力はスゴいなあ、と、感心させられる一作に、この2016年のイタリア映画「皆はこう読んだ、鋼鉄ジーグ」が挙げられるのだろうなあと思います。
日本が発進したアニメや特撮には、マンガ以上に明瞭に、蹂躙を忌まわしいこととして構え、身を挺してでもただしいことをおこなうのは当たり前のあるべきこと、目指すべき姿なのだ、という根幹的な意図が貫かれています。
この、日本人にとってはもう「当たり前」すぎて刺激のすくない「勧善懲悪」という概念も、それぞれの国のそのときどきの事情によって「はるかな理想」であったり「ゆるされない報果」であったりもするわけで、実際、革命を意識させることをおそれて放映中止を余儀なくれた日本のアニメ作品などもあったりするのです。
幼いこころに、刷り込みのように「正義」とはなにか、という問いをなげかけ、あきらめないこころを培わせる。
そういう、正義の洗脳を「良し」として、家族や隣人、社会や将来をシアワセなものとするために、世の中に貢献する人間になるべきだ、という考えは、実は、日本以外ではあまり存在していないのです。
でも(当の日本からみたら周回遅れではありますが)、これからの数十年にわたり、世界は、日本がバラまいたコンテンツで育てられたひとびとによって、「良くなろう、向上しよう」という、ぬかるみのなかを歩むことをあきらめない人間たちを多く輩出していく世界になっていくのだろうなあと、わたしには容易に想像出来るのです。
世界のその、テレビが筋道を立てた説明を施せないほどに歪んでしまった「現実」のゆくすえは、ほんとうに混迷を極めていて、救いの無い地獄をこの世に再現しようと懸命で、今日なお、その勢いはとまりません。
それでも、「正義」という響きは、誰にとっても途轍もなく魅力的であることにかわりはなく、その「純粋で美しいカタルシスの見本」を植えつけられたひとびとは、やがてその本質のもとに開花し、俄かに自己犠牲の精神がみずからのこころの内側から沸き起こるのをおさえられなくなるのでしょう。
そのひとつに、こうした「表現」の芸術に託しての開花があるのだと思うのです。
そしてこの作品のストーリーそのものこそ、こうした精神の具現化を、浄化をもって描いてもいるのです。
現実の世界の「いま」というのは、どうにもこの映画の舞台そのもののように感じますし、そうした世界にあって、自分の魂の純粋な象徴を客観視させられるとき、ひとはこのように、カタルシスを求めるのだということ。
その「原理」を、日本のアニメ作品「鋼鉄ジーグ」に置いてくれた、という行為こそ、正義の精神へのリスペクトにほかならないのでしょう。
この作品、今月からBD/DVDにて入手視聴が可能になってます、興味のあるかたはみてみてくださいまし。
ロボットは出てこないのですけとね。