こころの価値
すべてのキリスト教徒が、アッラーのために殉じた者たちを、包み込むようにいとおしくこころから涙してあげられる日が来るのなら、違う終末を創造することは出来るに違いない。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教のほんとうの痛みと苦しみ。
その棘をもし、取り除き救ってあげられる存在があるとするのなら、それはそれ以外の宗教でも経済でも技術でも武力でもない。
おそらくはそれは、日本人、という存在そのもの以外にあり得ないと結論する。
しかし一方でまた、わたしたちは、知らなすぎるのだ。
あらゆることを平易に受け入れすぎた。
だから、神への畏敬にも闇への警戒にも、あまりにも理解が浅い。
こころを、揺らさなければ。
たとえば日本人の多くは、シャヒードのこころを深く想像し、その痛みを慈しむ思いを抱く機会をどれほど持ち得るものだろうか。
同様、なぜユダヤが、そのように思い、生きなければならないかの痛みの重さを、深く想像し理解することに及んでいないままの今日がある。
更にいま、危ういことが生まれてしまった。
日本人、が、わからなくなる。
これが仕掛けられた。
つまり日本人とは、DNAなのか、国籍のことなのか、そうしたことに問題をすり替え、日本人というものそのものを暈してしまおうとする空気。
これが蔓延し終えた。
唯一、彼らの痛みを救える特効薬は、その実は、日本人という存在そのもの。
それは結論だ。
ともに大切を愛でることは、手垢まみれにするのではなく、許容しあう気持ちと考え方だという、わたしたちにしたら当たり前のことが、そうでないものたちには、権利と征服に置き換わってきた。
この常識感の差異こそが、最期に彼らを癒せる薬の正体だ。
なぜなら、それはもう、そんな常識はもう、世界の、歴史のどこにも生まれないからだ。
排するのではなく活かし、受け入れてともに栄えたいという暗黙の理念。
日本人、にしか生まれない思い。
これに、毒を撒かれた。
救われるべき彼らへの薬は、同時にこの世界そのものへの薬、歴史のすべての殉教者への祈りと昇華の薬でもある。
そんな大切なものを、わたしたちはぞんざいに見過ごしすぎて、なにやら見知らぬ罠に導かれてしまって今日を迎えてしまった。
それでも、気付き続けねば。
深め続けねば。
自分の思いを、誰かを助けたいというこころを守らねば。
わたしなら、救いたい。
なりふりかまわず、こころをかけていきたいと決める。
蟷螂の斧であろうとも、だ。
そしてこの思いを鼻で笑うものを思い、その微力を指さし嘲笑する者を想像すれば、まさにその時、気づいた。
彼らはこれを恐れているのか、と。
怖いのは実は、その蟷螂の斧、微力な「思い」という種なのか、と。
日本人、というものを消し去りたい輩が一番怖いのは、その実、このような微かな抗いや思いが、無駄だと笑っても、あざける程微力であってもなお、どうにも日本人のこころの中から消え切らないという事実なのだ、と。
この種、したたかである。
かつ、発動すればその作用は実に多元的だ。
日本人であろうとする思いの種こそが、かれらを、ひいては世界がいったい何であったか、という答えを「救う」花となるのだろう。
爆撃の災禍、疫病、生活を脅かす沈鬱の空気、痛みと恨みと呪い、こころは支配され「自分」を手放してしまう。
陰惨かつ暗澹たる景色の中、光のふりをする闇はいつも二択をのみ迫る。
縋ってほしい。
あなたたちを救えるものはその是非の中にはなく、この、たよりなげな種子の発露の中にこそ隠されていることを信じて縋ってほしいのだ。
戒律の中にどれほどの禁忌があろうとも、教えのおごりの中にどれほどの絶対を唱えられようとも、こころは、それを超えてほしいと願う。
そして日本人よ、わたしたち自身こそ、なによりもその大切な日本人の魂を軽んじた愚かさにこそ、今一度刮目し猛省せよ、
こころからはじまって、そこに生まれたものだけが時代や世界を具現化してきた。
創造の実現はすべて、最初の小さな種からの発芽の結びだ。
歴史も世界も、それは同じこと。
そこに預言を織り交ぜたものたちは、得意げに、ほら、言った通り終末が来たのだよと唆そうとするのだけれど、もはや急ぐほど馬脚も露になっているのも事実だ。
疫病も地震も、赤毛の雌牛も救世主さえも、もはや人口でつくれるのに、そこから目をそらせないものたちと、その意味すらもわからず半笑いで軽んじるものたちとの、その二分に、世界は至ってしまった。
その最初の二分は、そもそもがなにによって選ばれ、こうして結ばれたものなのか?
こころだ。
こころが選び、そうさせた結果が、是か非かの世の中にしたのだ。
ならば、逆また真理、こころは、いまからの、現実も預言もすべてを超えた、違う未来を描くことだって出来るのだ。
日本人よ、美辞麗句の受け入れからはじまろうともよい、しかしその末には誰に解説を頼むことをせず、みずからの魂でもって、殉教という命のことをどうか、深く深く思ってみよ。
もう、そうすべき時だ。
キューティーハニーNova

高峰ナダレさんのデザインで、津島直人さんによるコミック化が予定の、新生キューティーハニーのシリーズ『キューティーハニーNova』。
2024年駆け込みでの発表で、中身がまだ伴っていないのですが、まずは触れておきたいですね。
永井豪先生の1次2次3次、あるは4次いやさ5次6次創作になるであろう、ハニーの現代版解釈ですが、動画映像に依存せずスタートを切りそうです。
こんなふうに、優れたコンテンツのタイムレス、エイジレスなリレーが、媒体やカテゴリーの垣根を越えてふつふつとスタートしてます。
10数年のあいだ、このブログで軸に置いていること。
それは、優れたコンテンツは、多様な展開へと進化するし、普遍のものになっていく、ということです。
多様化と進化、とういことについて考えてみましょうか。
たとえば、3年B組金八先生。
これは進化がムズカしい。
でもこれ、実はみんな忘れているでしょうけど、かなり早い時期にゲームになっていて、多様化はとりあえず図ったりしてます。
でも早すぎましたね、タイムレスに失敗してます。
つまり、変わる、にも、時の味方が必要だということ。
でも金八先生、やっぱり浸透度高いです。
ほんとは武田さんの顕在的なご活躍が期待できるうちに、次世代のプロットへとバイパスできることがベストなのですが、このコンテンツをとりまく昭和のオツムのスタッフにはもう、コレをイメージすることはムリなのでしょうね、ああ、このこと、どうしてムリか、イメージが回避されてしまうかについてはある理由が見受けられるのですが、その問題、追って触れておきます。みなさん、ジャイさんって、ご存じかな?
で、もうひとつわかりやすいのは、踊る大走査線。
成否でいえば、今回の復活は成功です。
でも、このままのやり方では繋ぐ、続けるへの支障をきたすことも明白です。で、どうしたらいいか、は、過去に回答したことと、いまも答えは同じです。
過去に触れているように、メジャーマイナーな関係なく、自分に縁のあるコンテンツが周期をもつかのように復活している現実から、わたし、ある学習をしました。
それは、多様化を迂回する、ただの復元ではダメ、ということです。
もうすぐ皆さんは、人形劇サンダーバードを中心としたITC作品の現代版再現(アニバーサリーでいろいろ進行しているのです)に出会うことになるかと思います。ですがそれ、最初、ノスタルジーからあたたかく、しかしそのうち鬱陶しく、そしてあざとく感じはじめ、やがて冷めてしまう、のルーティンに陥る経験の始まりになってしまうかもしれません。
コンテンツを活かす、繋ぐ、というのは、一生懸命になって再現する、ということではないのです。
実はこれ、あんなに応援していた宇宙戦艦ヤマトのリメイクシリーズに、いま、自分が抱いてしまったキモチでもあります。ヤマトの製作陣がとっている方向性や努力、特にプロットの立て方の素晴らしさはちっとも間違っていないのですが、これも、あることが引き金で、いや、もっと手間と時間をかけて練ってほしかった!と、わたしを残念に思わせてしまったものから顕在化したキモチ、つまり、新たなる旅立ち以降の、コンテの切り方のお粗末さ、作画の荒れが最初の原因でした。
音楽とMVに向け、最初の脱出を成したジージャー。
キューティーハニーは、今回はフィギュアからはじまりそうですよ。
と、なると、気付くワケですね、ああ、ジージャーのフィギュア、まだじゃん!と。
異世界チョコレート・ファイター

というワケで、ジージャーの活躍の多様性を、異世界スーサイド・スクワッドに照らしてイメージしてみましょう。
マーゴット・ロビーが創造したハーレイ・クインは、そのビジュアル、キャラ付けをもとに、日本製のアニメ作品にそのエッセンスを引き継がれ、DCの文化に疎い層やその他の未知の層にも届けられる機会を得ることが出来ました。
同作は、布袋寅泰のオープニングや、Moriカリオペの軽快なエンディングも手伝い、ハリウッドの実写版では成せなかったポップな印象を構成できていたとおもいます。
ハーレイにせよ、鉄拳に、バット持ったまんまで参戦って、容易に想像できるのですが、この想像を実現までインストラクトするのに必要なのが、タイムレス、エイジレスという要素です。
マーゴット・ロビーはいま34歳、もし、その参戦というバーチャルがかなえば、最初に比較されるのは、キャラに対する現在の自分自身です。
その比較の中には良い点も悪い点もみられることでしょうが、まずはこれらの点をすっとばせるだけのキャラ付けを、ここまでの活躍で彼女は確立してます。
こう考えると、マーゴット・ロビーが生み出したハーレイ・クインは、これからもまだまだ、本人の手を離れてすらも成長するであろう伸びしろを得たのだということが理解できるのではないでしょうか。で、この先駆者は、ほかでもない、ブルース・リーです。彼はもう、何歳とも、自身の比較とも切り離され扱われていますが、これからの時代ではこういう存在が多々創出されていくのではないかとも感じます。
異世界チョコレートファイターは、もちろん、ただのたとえです。
ですが、では、ジージャーというタイトルの唄が日本のアーティストによって生み出され、そのMVが楽しめる日が来たこと、いつ、だれがたとえ得ていたでしょうね。
いろんな、可能性の。

Poison Pop Pepper さんの jeeja に感心するのは、MVの枠の中で、最大限に動かされているここなさん、殺陣の組み方の妙技と破綻なく役割をはたす劇中アニメの存在と、そのすべてにわたって一貫してテンションを上げ続ける、優れたコンテの切り方にあります。
先に、あるダメな最近のアニメの出来を、あえて『どうしようもないほど酷い』と評しましたが、それもまた、その過程にある監修のいいかげんさやコンテの露骨な手抜きがあまりにもあきらかに見て取れ、そこに定番となってしまった海外のひとたちに発注した作画の完成度のレベルの低さが、作品として救いようのないほどの仕上がりを呼び込んでいるためで、言い換えるなら、すくなくとも監修とコンテさえ手抜きにならなければ、第三期の『このすば』くらいにまでは収めて逃げられたかもしれない、ということですが、、、このすば三期も作画はなあ、、、、、。
ともあれ、出来のよいコンテンツの発信は、それを受信するヒトたちに次のイマジネーションを夢想させるチカラを備えます。
その意味で、今回の動き、どう飛び火してくれるかが楽しみなのです。
以前のお話の中で何度か、ジージャーの『鉄拳』参戦を語っていますが、これにせよ、ジージャーのキャラであるゼンに対し、ブルース・リーがそうであるようなタイムレス、エイジレスの魔法がかかってしまえば、いまからは、けっこうあり得るのではないかとも思うのです。
そう、ジージャー自身というコンテンツが、いまからは自由で多様な個性の存在になっていく可能性の兆しが、このMVからは見えてくるということです。
これを、あと少し。
この空気を彼女自身の現在の活躍が、いま、補ってくれるなら、日本のいろんなジャンルのクリエーターたちを喚起する起爆剤となることは間違いないのですが、、、。
異世界スーサイド・スクワッド

2024年に放映された作品、『異世界スーサイド・スクワッド』は、DCの映画スーサイド・スクワッドのメンバーが異世界に赴き活躍する、日本が制作した新作アニメです。
で、見ての通りなのですが、ハーレイのキャラの下敷きは、この世代でマーゴット・ロビーによって確立されたビジュアル、性格に準じています。
この作品での特筆、世界的にウケたのは、エンディングで、冷酷無比で容赦ないあのアマンダ・ウォーラーが踊る姿で、これこそまあ、アニメにしか、日本にしか作れないものだと爆笑で迎えられました。
映像作品では昨今、差別への過剰な敏感さから、是非もないような批判で、言い捨ての稚拙な理屈を持ち出す(正義の味方)も多く、当たり前のことも通じなくなってる感があります。
そんな中で、毎回の視聴を可能とするエンディングでコレをやらかした同作のアプローチ、なかなかユニークだったかと思います。
それでも、わたしがもろ手を挙げて評価しない理由は、まずはこの作品のストーリーの弱さ、そしてなにより、後半に至るほど劣化していく作画が原因です。
日本のアニメ作品を評価して、素晴らしい、出来がいいとする声、多いですが、わたしはそれ、見誤りだし、大ウソだと思ってます。
この作品に限りません、あとで具体的に列挙しますが、どんなにコンセプトやスクリプトが優れていても、始まってしまうと泥の船のように、沈んでいくままの作画劣化に見舞われるのが、このアニメという業界の常であり、そうならなかった鋭意の作画による他作品にけん引され、総まとめ的に、ね、日本のアニメはいいよね、をねだるのは、反吐が出るほど不快なことですし、これ以上、見過ごすこともできません。
昨今、もっとも酷かったのは、やっぱり『グレンダイザーU』です。
子供だましにすらなりません、真摯な反省を求めたいです。
スーサイド・スクワッド

ハーレイクインを演じるマーゴット・ロビー、実はけっこうな日本びいきで、特に『ななつ星』乗車のエピソードは有名かもしれませんね。
そんな彼女ですが、現在のハーレイのビジュアルやキャラ作りは間違いなく彼女自身の代で彼女によって生みだされたものです。もちろん、スーサイド・スクワッドという作品の、いまのようなスタイルも、彼女を軸とした流れから生まれたものです。
一時代を築いた感のあるマーベルのキャラたちの成功からすれば、いまひとつ地味で重い感をぬぐえなかったDCの世界に、スーサイド・スクワッドの成功はかなりの華を添ええたものだと感じているのですが、どうでしょうか。
ハーレイ・クイン

マーゴット・ロビーが演じる映画シリーズ、スーサイド・スクワッドからの、一連のハーレイクインの物語。
バットマンがあり、そのなかの人気の悪役ジョーカーの物語があり、そのジョーカーの恋人である精神科医ハーリーン・クインゼル、通称ハーレイクインを中心とした物語にいたる『スーサイド・スクワッド』。
マーゴット・ロビーの演技は徹底してました。ハーレイクインのイカれっぷりを存分に表現できていたところから、自身の演じるハーレイを主人公としたシリーズにつながっていったのですが、この成功はまた、アマンダ・ウォーラーについてのスピンオフなどを生み出す可能性に繋がったりしてるのですが、そうなればまた、そこでハーレイを演じるマーゴット・ロビーの出番の可能性もあるのでしょう。
まあ、あるのでしょう、と表現が弱いのは、マーゴット・ロビー自身が「私はハーレイをほかの女優に引き継ぎ演じられるようなキャラクターであってほしいと思っていました」と発言しているからです。
この発言は『ジョーカー:フォリアドゥ』で、ハーレイを演じるのがレディー・ガガになった点を問われた時のものです。
DCの主幹たるジェームズ・ガン自身は、今後のマーゴット・ロビーによるハーレイを否定していませんので、その意味ではまだまだ、彼女のハーレイクインを観られる可能性はあるのかもしれません。