ジージャー・ヤーニン応援ブログ

いいえ、女優ジージャー・ヤーニンを応援するブログですとも。

感想の勝手さ 2

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たとえばエヴァンゲリヲンQの冒頭には「巨神兵東京に現わる」という10分ほどの映像が流れます。
みなさんは、漫画のほうの「風の谷のナウシカ」はご存じですか?
この映像はもちろん、そのナウシカに出てくる巨神兵をモチーフにしたスピンオフで、庵野秀明特撮博物館という企画にて製作されたものです。
ではどうして、敢えてエヴァンゲリヲンQの冒頭に置かれたのでしょうか。
マンガのナウシカに習うなにかがあるのでしょうか。
エヴァ巨神兵のイメージの交錯は、すでに前作「破」のなかで行われていたことです。
にもかかわらず、なぜ「今回」、このことはデフォルメされたのでしょう。
そして最初に定義された新劇場版エヴァの「序、破、急」は、どうして雅楽に習う必要があったのでしょうか。
さあ、むき出しの謎が満載です。
ほんのすこし、アタマをひねれば全部わかることですが、なにより模索することが大切なのです。
ああ、「わかる」というのは、謎がとける、ということだけではないですね。
壮大な全体観にもとづく感性の作業がそこにあるのがわかるでしょ、という意味でも、です。
大切なことがむき出しにおかれていく。
ところが、それが大切なものなのかどうかも自分では判断できずに、他人に定義されないと気付くことすら出来ないヒトって、なにか、もうぜんぜんおかしくはないでしょうか。
よく、同じ作品や映画をいっしょにみてるのに、ねえ 、これってどういう意味とか、よく考えもせず平気で「意味わかんない」とか言い出すヒトがいます。
そのひとたちにかけるコトバはもうわたしにはありません。
ていうか、もう、解説するのもバカらしいというのが、わたしの「勝手な感想」です。
エヴァンゲリヲンQ。
この作品は、たいへんな試みを込めた大作だったとおもいます。
物語りの構成の詳細は、実は自分なりには答えを察してしまいましたが、その意味での素晴らしさを讃えて「たいへんな」と評したのではありません。
このことを掘り下げて、ああだこうだ言うのももうやめにしたいとおもうのですが、ただ、もしこの映画が「よくわからなかった」ということで躓くひとがいるのなら、ひとつだけ、こころみてほしいことがあるのです。
単純なことです。
この映画を観るあなた自身が、ただ「シンジくんの気持ち」になって、物語りのなかに介入してみてくれれば、このお話しの深さは容易に理解できるとおもうのです。
自分のせいいっぱいの行いの結果が、知らないままに全人類の呪詛の的にされながら、その行く末の責任のとりようもない道にひとりで歩きださなければならなくなる少年のお話しです。
わたしは、胸が苦しくなりました。
映画はまず、エンターティメントでなければならない、というのが持論です。
ただ、現代に模索されるそのエンターティメントの姿もまた、実に多様に派生しているというのが現実でしょう。
にもかかわらず、それを受け入れられない、というか理解する、考え受け入れることのできない残念な「上澄みだけ」の感性しか持ち合わせない輩には、特にもう、なにもいわないことにしたほうがいいのかもしれませんね。
なんにせよ、こころのない誰かのくだらない吐き捨ての理屈には、もう耳をかさないことのほうが正解なのかもしれないです。
アングロサクソンの大好きなディベートの類にもそもそもわたしは興味ありませんし、自分がただしいと言い張ることのくだらなさの寄り合いの舞台にも嫌悪感がありますし。
誰かのゴミのような屁理屈が許されるのなら、それを否定するこれもまた、わたしの「勝手な感想」なのですし、許容してほしいものです。
いずれにしても不愉快です。
人間の生き方にせよ、人間が創造していく作品にせよ、ヒトの真摯なおこないの、その真摯さにテロップがはいらないとわからないヒトたちは、わたし的にはもう、救いが見出せません。