ジージャー・ヤーニン応援ブログ

いいえ、女優ジージャー・ヤーニンを応援するブログですとも。

希望の国

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テレビからインターネットから新聞から、あきれたウソが平気で撒き散らされていてイヤになるのです。
原発の問題ではわたしたちは大ウソをつかれ続けて来ましたが、謝罪もありませんし、もう誰も腹にチカラを入れて怒ろうともしません。
慣れてしまうのですね。
希望の国」という映画があります。
福島のあとにもう一度、原発事故が起こったというお話です。
物語の中では福島のときと同様、国も電力会社も変わらず正しい報道も対応もしません。
映画は近未来を装いながら現代を風刺します。
放射能を恐ろしいと思うヒトを嘲笑する空気が生活のなかにはびこって行くという様子を描くのです。
ウソに弱すぎる、慣れすぎるわたしたちこそ、どうかしているのだとわたしは思うのです。
今年、ある議員の発言から、それに便乗する大嘘つきたちの来日がありました。
この時期にこんなひどい目にあっていた、だから反省しろ謝罪しろ金払え、と活動してきたヒトたちです。
実にその「時期」という一点ですら大ウソのままなのに、平気でまだ被害者を装い続け、その行動を都合よく活用しようとする団体と結託して「百回のウソ」を重ね続けています。
うんざりするのです。
その大ウソつきと、そのウソつきを擁護し報道するマスコミに。
気がついてほしいのですが、問題を提起し語るものですら、その実は「都合」の側の傀儡だったりするものなのです。
ウソに弱すぎるわたしたちは、「取り上げられる」ことで満足してしまいます。
そうすると、その問題を語るものは「味方」だと勘違いしてしまう仕組みに取り込まれてしまうのです。
ある朝8時からのテレビ番組があります。
歯に衣着せず語るその司会者は、残念ながらその語気とは裏腹に、本質的なことには何も触れないのです。
そしてその番組のスポンサーをみて、ああ、そういうことか、と、ガッカリさせられてしまうのです。




お前たちはみな、おおきく見誤ってる。まるで3歳か4歳の幼児のように。
この世を自分中心に考え、求めれば、まわりが右往左往して世話をしてくれると。
甘えをすてろ。
お前らの甘えの最たるものは、いま口々にがなりたてた、その「質問」というヤツだ。
質問すれば答えが返ってくるのが当たり前か。
なぜそんなふうに考える?
バカが。とんでもない誤解だ。
答えというものは、答える側に都合のいいことだから伝えられるだけだ。真実とは関係ない。
たとえば、これこれこのようだと、ものごとを説明することなどいともたやすい。
しかしその真偽はどうする?
オレが何を話そうと、結局ただそれを信じるしかない、つまり、どんないい話を聞いても、それはただの気休めにすぎないってことだ。
違うか?
ヒトの都合にのせられている自分の責任はいったい誰がとるというのか?
本当のことを本当のことだと見極めることが出来るのは、自分自身の想像力だけだ。
なぜそのことがわからない?
なぜ、そのことに気がつかない?
真偽などどうでもいいから聞きたいというのか?
いいかげん、目をさませ



いいえ、わたしのコトバではありません。漫画カイジの中の利根川の言葉ですね。
みなさんには、こういうお話はどのように聴こえるのでしょう。
ただのマンガの中の戯れ言、自分とはカンケイないハナシなのでしょうか。
わかりませんが..