ジージャー・ヤーニン応援ブログ

いいえ、女優ジージャー・ヤーニンを応援するブログですとも。

キャスティング 2

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四六時中、仏頂面よろしく警戒と緊張に構えた表情と、身内にみせる愛嬌の表情。
戦いに向き合うことで、凛とした表情をたたえ切り替えを表現する。
身を隠すように地味な外套で闊歩し、場面に応じて変身し、華やかなドレス姿でみるものを魅了もする。
そういう、主人公にハニーという役を担わせる。
そしてブレードランナーのような世界観の舞台に、マトリックスバイオハザードをまぜたようなビジュアルの展開で、だれが何をどうしてそうしたいのか、見る側になかなか伝わってこない、「なんとなく」な勧善懲悪の前提への依存のものがたり。
なるほど、そういう映画は世界のいろんなところにあるし、無難かもしれない。
でも、申し訳ないが、そんなはなし、別にみたくない。
おそらく、積極的にみたくなるヒトもほとんどいないとおもう。
唯一、西内まりやさん、石田ニコルさんのファン以外には、どうにも説得力もみあたらない。
わたしは、西内まりやさんは、たったいまがどうであれ、まだまだ才能の引き出しをもつ女優だとおもうし、この作品にせよ、使われ方次第で彼女ひとりのチカラで引っ張っていけただけの潜在能力も可能性もあったと察しています。
でも、出来なかったし、しなかった。
どうしてか?
これはそんなにムズカシイことではなく、この作品の進行の行程に携わったうえで、彼女にとってそれが、積極的に接し思いいれて深めるだけの価値を直感的に感じさせなかったから、それだけのことなのだろう。
なら、心中なんてする必要はないし、それでよかったのだと思う。
この作品、少なくとも「キューティーハニー」の名をかりただけの亜流作品であって、やっつけのニセモノだ。
その証拠として、この作品のどこにもハニーがみあたらないということがあげられる。
そもそも「如月ハニー」は、こんな女の子ではない。
ハニーの真摯なひとみは、痛みをかかえるひとたちの願いをうけとめる思いを備え、こたえるものであり,キューティーハニーを描くことは、このことを掘り下げることなのだ。
どんな苦境のなかからでも、友に、仲間に、愛すべきひとたちに笑顔をあたえることを厭わない、その姿を描くことこそが、キューティーハニーを語ることの本質だからだ。
なるほど、みたことのない、あたちしいハニーを、というなら、それはそれでよく、いくらでも書き方、描き方はあったと思うし、そういうこころみはあってよいと思う。
しかしこの作品はそこが問題なのではなく、そもそもハニーの世界観の変幻自在さを知っていれば、最初からタブーがほとんどないということがわかるはずなのだが、そこにすら至っていない未熟さに、ウソをみつけてしまうのだ。
だからハッキリ言えば、この作品の製作側、キューティーハニーなんて聞きかじった程度しか知らないのだろうし、そもそも愛していないのだと思う。
こうした製作側のいいかげんな態度を擁護する「忙しさ」と「たいへんさ」にだけ裏打ちされた、建前で盛られた「しょうがなさ」に巻き込まれて、ハニーという役柄が死んでいってしまう。
こんなことは、役者への、原作への冒涜以外のなにものでもないと思うのだけど。
厳しいことを並べてしまった。
闘ったのは「彼らだ」、なにをかいわんや、というわたしの原則からすれば異例のことかもしれないけれど、それにしても、これは「あんまり」なのだ。