ジージャー・ヤーニン応援ブログ

いいえ、女優ジージャー・ヤーニンを応援するブログですとも。

ディボース

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あらためて「ジージャーのいま」を語ろうとすると、どうしても避けて通れない話題がひとつ。
離婚の件です。
これもまた、ジージャーの選択した「答え」のひとつですね。
誰であれ、行いの刻印は意志のあらわれであって、それ自体は、ヒトのウワサや世の中の空気がどうであれ、その実は良いことでも悪いことでもなく、そこからどこへ向かうかということこそに意義があるのだ、ということを覚えておく必要があると思います。
誰も、そのひとの代わりを生きられない、この事実を踏まえたとき、どんな第三者の厳かな指摘がそこにあろうとも、つまりはウソだからです。
真綿にくるんですら痛い、そういうヒトの痛みや苦しみまで、もし、ほんとうにわかるのなら、ヒトはむしろ、口を閉ざすことでしょうから。
日本のマスコミでは、いま、芸能人連中の不倫をとりあげて糾弾するのが大はやりで、それをあたかも正統なことのように、したり顔で語る醜い表情の連中の顔が並ぶのを多く見かけた1年でした。
反吐が出ます。
マスコミが煽動して風潮にしてしまう、こういうコントロールに慣れてしまうと、誰しも自分でものを考えるチカラをなくします。
果ては、意義や正義までこれらに書き換えられ、自分のものだと自分が信じている「自分の意志」すらも、上書きされてしまう。
鬱病になるひとたちの最初の種、原因の根は、実はこれです。
空気に負けてしまう。人間関係に疲れてしまう。信念にすがりついて溺れてしまう。こころの膠着に導かれる。
ここに、実はウソがあります。
つまり、その、空気やら信念やら、疑念やら正しさやら義務やらというものは、そもそもが「自分が定義したもの」ではないのです。
すり替えられ、気がつくと、自分で選んだかのように思い込まされ、それに準じ、あたかもその喪失が大問題だったかのように塞ぎ込んで、自律神経をダメにしてしまう。
これに、追い打ちをかけるように、社会が「それは痛ましい病気だ」という甘美なレッテルを貼りに来る。
茶番です。
こんなものに支配されていては、ほんとうの、ひとの「生きていくことの意義」をこそ失くしてしまいます。
世の中のいずれであれ、それはみずからの意志でもって選び、先に進むべく断腸の念でもって捨てていくことのはず。
その先に、信じるものを見いだしたいから、です。
離婚について、いろいろと語ることをずっと考えていましたが、そこからの行為と成果に夢をみることのほうが、ずっと価値があるように、わたしは思いました。
見つめて行きたいと思います。