ジージャー・ヤーニン応援ブログ

いいえ、女優ジージャー・ヤーニンを応援するブログですとも。

コンテンツの系譜 1

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ながらく、ジージャーにとってどれほど「コンテンツ」というものが大切か、と語り続けてきましたが、そろそろ終了いたします。
どんなに叫んでも、なんの声も帰ってこないので。
ヒトがおもしろいとおもってないことを語り続けてノイズになることを潔しとしません。
賛同が得られないから無色か、といえばそれはウソ。
発しない声。
それは、積極的な否定なのだということ、おぼえておいてください。
カンケイない、なんてどこにもありません。
すべて、関わりのなかでのこと。
つまりみんなが、この考えに反対だという意志表示をしたので、わたしはやめるのです。
それがわたしにとって、おもしろくないことだからです。
ただ、多数決がなんであれ、わたしの考えが変節することはないので、語るのをやめるだけということ、そしてわたしが考えてきたことは、いつかどこかでかならずカタチになるのだということ。
このこと、自信を持って断言します。
おぼえておくとおもしろいかもしれませんね。
ともあれ、ラスト。
なんだかんだいっても、これほど続けてきたことの感慨無量のラストです。
さあ、がんばって書きましょ!!

シン・ゴジラ」、みてきました。
感想では「エヴァを彷彿とさせる」とよく書かれていますが、わたしは同時に「踊る大捜査線」をイメージしました。
庵野監督の求めたものは、歴史をもつメガコンテンツの再生の役割を担いながらも、その実は「ゴジラ」というコンテンツにひとつの区切りをあたえるものでもあったとおもいます。
生命の進化の行方と、越えられない人間の心情というエネルギーと。
そして日本という国の現実と、この国と原子力との因縁のかかわりと、それに立ち向かう姿勢と。
これが、今回のゴジラの大枠を彩るテーマだったのではないかとおもいました。
うまいなあ、とおもいました。
このおはなし、小さな子たちにはたぶん、まったくチンプンカンプンだったことでしょう。
でもおもうのです。
わたしたちにしたってその幼児期、原水爆実験への警鐘をならすというゴジラの意義なんて、どうにも理解できないままに、ゴジラにふれていったはず。
魅力あふれるキャラクターに牽引されてその世界観を味わい、そこからはじまって、やがてその「意」を知り、そのアンカーとなっていく。
おもえば、これは人生そのものと同じ流れのことです。
ヒトの成長とは、物語りへの理解とともにあるということ。
つまりは、わたしたちが生きていくということは大なり小なり、物語りというものと現実のはざかいにあるのだということ、そしてなぜそうなのかということの答え、それは、ヒトというものがその実は、みずからの物語りを描くために生を得た存在がたら、ということにあるのです。
物語りの必然。
これを顕在的にとらえられるひとは、ひとびとにその「見本」をみずから示す存在となるべく運命づけられ、また、これを潜在的に受けとめるひとたちは、薄く低く運命の流れをとらえ、蒙昧なまま、必要にせまられて共感のありかを模索して生きていくことを強いられるのです。
書き手と読み手の違いがここにあります。
誰でも書き手にはなれます。
世界は、だれにでも創れるのです。
でも、その「質」は、隠しようもなく露呈し、薄い、浅いは見抜かれます。
安直に組まれた世界の粗末さは、そのひとの人格そのものです。
換言するなら、すぐれた世界観を描けるということは、それを司るだけの思慮と想像力を持ち合わせていなければ不可能だということ。
かえりみて、「神話」という世界がまさにそうですね。
その意味において「ゴジラ」というコンテンツの複雑さは、すでにおおくのひとびとによって思われ、語られ、意志の注入を受けてきた存在であるという点です。
このようなメガコンテンツに対し、どのように立ち向かうか、ということには、なによりも「ゆるぎないメッセージ」というものの必然という糧がなければ成されないことなのです。
シン・ゴジラ」という作品からは、つよく、「この国は自分たちが守っていく」という意志を描こうとする思いと、「たおれてもたおれてもなお、たちあがるのだ!」というメッセージが感じられるのです。
長い時間がながれ、やがてこの作品を「ゴジラ」の歴史のなかの一作として見直す日がくるとき、このことはより顕著に感じられるようになるかもしれませんね。