ジージャー・ヤーニン応援ブログ

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見つめていたい

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ブログを続けることは、コンテンツを語ること、世の中に生み出された、ひとびとの語る幾星霜の果てに築かれたあまたの「物語」をなぞることです。
そのひとが自分のオリジナルだと信じている物語でさえ、その実は、場面の分析のもとに36のパターンに仕分けられた展開の強弱の披瀝にすぎません。
これを、ジョルジュの36局面といいます。
しかしその実際、ジョルジュ・ポルティがそのように「自分の発見だ」と思っているこの分析ですら、未熟な運命の展開ルーチンのひな型への気づきにすぎないのです。
ひととひとの組み合わせ、性格と性格の絡み合いに、時代や生活の背景が加えられ、意志のベクトルと運命の速度のせめぎあいを描き、物語となる、これはたとえば、個人の人生を個人が語るときですら同様なのです。
つまりわたしたちは、この「ひととしての歴史から逃れられない」かぎりにおいて、いつの時代のどの場面においても同様に、運命の力学作用の餌食にされていることに代わりはないのだということです。
神話に、人間が生きていくことの意義の影を見いだして久しいのですが、つまりは、あまたの人々が語るその運命の「物語」もまた、神話の断片の再現だということであり、その「神話」はまた、元素配列のように譲れない序列によって成り立っているという事実を、わたしたちはこうして、「自分を生きていく」過程で確認しながら、そのことにこころを揺らされて今日を生かされています。
幼いころ、周期表というものの原理を聞いて、信じられませんでした。
わたしはすぐにこのことの裏を読みます。
これは、ブッダのいう、「この世の中に、変わらないでいられるものはない」という法則は変わらないのだ、という論理とおなじです。
そんな、決められた金魚鉢のなかの生き方しかあたえられないというのなら、ヒトとは、いったいなんのために生きていくのだろう。
このことが、わたしの「運命」という存在に対しての研究の勢いを深く激しいものにしました。
結論から言えば、わたしたちの存在とわたしたちの「時間」の正体は、神の見ている夢なのです。
荘子の「胡蝶の夢」のたとえをイメージしてもらえれば、このことはわかりやすいかもしれませんが、わたしの言うところは荘子の説を以てひとの厭世観を促すものではありません。
人は、神の見る夢。
神がその夢に望むのは、この輪廻という連鎖からの逸脱の日のおとずれです。
壊してほしいのです。
繰り返しを。
「運命」という忌まわしい刻印の支配を。
37番目の局面を起こしてほしい、という願いこそが、永遠に続くと信じられている、ひとの紡ぐ「物語」の終点、最終目的です。
量子力学の考えを加えて、この結論をなぞると、このことの肯定は容易になるのですが、それにしても何故、いま、量子力学なのか、ということです。
なんとなく、急いでヒントを出し始めている、神様の焦りがみえてきたりするのですね(笑)。
おのれの意志でもって、自分の道を拓こうとするもののすべては、この、神の夢に後押しされるものたちです。
逸脱までには,たくさんの「物語」の体感があり、その先にこそ、物語からの卒業が待っています。
このことの訪れは、おそらくなのですが、その日のその本人にしか実感も体得もできないことのように思います。
漫画「蒼天航路」の中で、主人公の曹操は、人類の首席たる人としてなぞらえられ、語られます。
この発想は圧倒的です。
何千年も続くヒトというものの系統的個体発生種は、いつの日にか、その最終決算の抽出たる「人類の代表」という結晶を用意しなければなりません。
それは,ひとりとも限らないでしょう。
それに値する存在のひとりは、あるいはこの時代においてはその実、ジョーク好きのシレっとした涼しい顔の、当面の目標に向けて目を爛々と輝かせるだけの、元気な少女のような人間だったりするかもしれませんね。
こころの瞬発力を失わず、一途に何かを見つめ、もとめようとするエネルギーが、愛でられるようにふさわしい「方向」を授けられる。
この道筋を行くものは、その姿を見るものをも輝かせ導くのだということを、なぜだかわたしたちはもう、よく知っていたりします。
「物語」を知ろうとすること、それを感じて考えてみようとすることがそれほどに無意味だとは、わたしには少しも思えないのです。