ジージャー・ヤーニン応援ブログ

いいえ、女優ジージャー・ヤーニンを応援するブログですとも。

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去年の暮れから一青窈さんのメディア露出が多くなっていて、それぞれを楽しく拝見させていただいておりました。
特集された番組や、テーマに沿って出演された番組などそれぞれでしたが、活動の近況を知り、新曲やニューアルパムの予定を聞くにつけ、多忙なその活躍を応援するばかりです。
ただ、そうした中で、ふとおもってしまったことがあります。
ジージャーさんや一青窈さんのように、他者が深い思いでその人物をとらえ、こころの記号のように考えてしまう人物って、その負うものの大きさでとんでもなくたいへんなんだろうなあ、と。
こころがつぶれてしまうギリギリのところで、自分を磨いているのだろうなあ、って。
ジージャーにしても一青窈さんにしても、とても気さくで自由で、真摯なひとに見えますし、質実、そういうひとたちなのだろうともおもうのです。
ただし人間というのは、強い光を帯びるほどに影も濃くなるもので、優しいひとほど深い悲しみを知っていたりするものなのですね。
たとえばここで例としているおふたりとも、父親を早くに亡くされていたりします。
一青窈さんにいたってはお母さんもすでにいらっしゃいません。
窈さんは実に毎回、自分の生い立ちから順に自分の「いま」を語らされるということに晒されています。
これ、たとえば自分のこととして考えてみてください。
ヒトって良い意味でも悪い意味でも変化も進化もします。
なのにいつも、変わらない姿勢を暗黙のうちに約束させられてしまっているわけです。
たどりつく結論はすべて、一青窈らしくなければならないというお約束。
それはわたしたちファンがそう期待するからですし、そう信頼するからでもあります。
これらは良いとか悪いとかではないのです。
ただ、ひとつのことに結びつけ縛られ続けることって、どこかでとても苦しいものだったりします。
それでも彼女たちは気丈に振る舞い笑顔をくれるのです。
苦にした様子も見せず「自分を演じなければならない」のが仕事ですし、自分を自分として奮い立たせていかなければならないのが「選んだこと」だから、しょうがないことではあるのでしょう。
それはまあ、どんな人間でも大同小異、みながそういうものだとはおもいます。
ただ彼らや彼女たちの一挙手一投足はすべて他人の評価のなかにあるのです。
もはや神様なたいなものですもんね。
ほんとうにたいへんなことだと察しますし、同時にやりがいのあることだとも思います。
彼女たちはもう、おおくのひとたちのこころの糧であり見本なのですね。
それはもう、退く事のできないことではありますが、ただ、すばらしいことだとも思うのです。
応援せずにいられません。