ジージャー・ヤーニン応援ブログ

いいえ、女優ジージャー・ヤーニンを応援するブログですとも。

自閉症の演技

イメージ 1

ちなみに写真は、台湾のプロモーションの時期のジージャーですね。
またまた髪形が違います(笑)。
ちょっと、幼かったころの星野真理さんにも似てませんか(笑)。
さて、ジージャーの演技のこと。
私が映画「チョコレート・ファイター」で最初に心を掴まれたのは、ジージャーの自閉症の演技が素晴らしかった点でした。
残念ながら日本では、この点への評価をまったく耳にしません。
それもそのはずで、この国でのこの障害への認知は世界中で最低のレベルにあるといっても過言ではない状況があるからです。
ジージャーは、この障害について自ら施設に赴き学んだり、インターネットで調べたりしながらこの演技を積み上げています。
劇中、わが国においては注釈が必要となりそうな場面、「お出掛けの日」が予定変更になることによるパニック、または、たとえばジンの毛髪が病気で抜け落ちてるのに気付いて過激なパニックに陥った後、ゼンが自らハサミで髪を切ってしまうというシーン。
ものごとをパターンでしか把握できない(それゆえに莫大なメモリーを持ってもいるのですが)彼女たちにとって、予定変更というのは実に残酷な試練であり、ストレスの塊になってしまうということや、自閉症の女の子が唐突にジョキジョキと髪を切ってしまうのは典型的な症例なのですが、こういうことがわが国では説明がいります。
オウム返し、反転での手かざし、からだを揺らし続けるロッキングという症状、などなど。
実に上手に、様々なシーンに、自閉症の症状が折り込まれています。
予定を変えられない、意志を変えられないほど頑固である反面、指示に対してきわめて素直であり、ものごとへの理解に対して正直過ぎるほどに誠実である、というのも、この障害の特徴です。
いとも騙されやすく、痛々しいほどに純粋。
それがこの障害の本質であり、少女のジージャーの演技にみごとに合致しているのです。
ピンゲーオ監督自身が物語の冒頭に、この問題に触れていますが、彼女や彼らの未来は大きく閉ざされており、ひとびとの悠久の理解と無償の愛が注がれないがぎり、生きていくことの価値が見出される機会は永遠に得られない、それが現代の、この障害についての現実です。
この障害は「人間とはなんなのだろうか」ということの本質を問うものです。
資本主義や儒教的な考えの多くが、彼らや彼女たちの存在を否定し、受け入れない素地を提示します。
かといって、世の中の既存の何かに上手に、彼らや彼女たちの存在を当てはめうる何かが存在しているわけでもないのです。
私はこの障害の存在を、新世紀の価値観を模索させるためのテーゼだと感じています。
ヒトが生きていくことの意義が、唯物主義的な、あるいは蒙昧な自己中心主義から脱していかなければならない時期を迎えているのだなあ、と感じることが度々あります。
重いおハナシになりましたが、自閉症の世界とは、そういう問題でもあるのです。
その意味において、映画「チョコレート・ファイター」や、ジージャーのこの演技はもっと評価されて然るべきなのではないかなあ、とも思うのです。