ジージャー・ヤーニン応援ブログ

いいえ、女優ジージャー・ヤーニンを応援するブログですとも。

もらい泣き

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一青窈さん。
一青という姓は石川県の出の名前で、ふつうに日本人の姓。
これは地名でしたので私は実際そこまで行ってきて、「ああここらへんなんだなあ」と見てきたりしました(笑)。
デビューして間もなく、あるテレビ番組で本人が「父が台湾人で、母が日本人、一青というのは日本の姓」と説明していたのを覚えています。
同時期に数名の女性アーティストがデビューしていたので、どうしてもその群れの中での比較が世の中の主な評価でしたが、ただそれは、彼女への大いなる「誤解」だったのではないかなあ、と感じています。
25歳のデビューということもあってか、芸能界に出て間もない時期の雑誌対談では、セクハラまがいのインタビューに応じさせられたり、媚を売ることもない、暗く深い真摯な眼差しは、大人びているというより、なんだか世の中をバカにしているようにも感じられました。
そんな感じなので、けっして好きなアーティストという感じで受け取っていたワケではないのです。
ただ、私にとってそもそも不思議だったのは、「もらい泣き」といううたの完成度でした。
話題曲だから、と、何気なく聞いていました。
とまるのです。
何もかも。
動作も、頭の中も、時間も、想いも。
何度も何度も聞きました。
新曲が出ても、結局はこの「もらい泣き」を聞いてしまうのです。
うたというものが、ヒトの心象風景をなぞるもので、それが誰かの感性と合致したとき、心地よいものとなって、キモチを癒してくれるというのはよくあること。
そういう意味でも、恋だ愛だ、約束だ誓いだ、と、ぐだぐだ並べて叫ぶだけの薄っぺらなうたにはストレスを感じるもので、音楽好きでしょ、と、言われてこのテのものを押しつけられるのは大迷惑なのです。
世の中には、そういう「うた」が蔓延していました。
ヒトの心に届く「うた」は、ほんとうに、ほんの一握りしかないと思います。
これは、そういう「うた」のひとつなのだと、何度も何度も確かめて、今日でさえ、そう実感して聞き直したりしています。
ここから、私の「一青窈」が描かれはじめて行きます。
実は、時事的には彼女の話題を追ったりはしていません。
加えて、芸能関係には疎いです。
だからあんまり、世の中がネタにしたがるようなスキャンダルとか抜擢とかと、私の中の彼女は関係なかったりします。
おそらくは、彼女がおばあさんになろうと誰と結婚しようと、そういうことと、今日までに彼女がわたしに与えてくれたモノとは、関係ありそうで関係なかったりするのでしょうね。
ただ、彼女のいまが幸せなら、それは素直に祝福したいと思うだけです。
さて、これから少し、一青窈さんのことについて綴らせていただくことになると思うのですが、多くは私の勝手な感想です(笑)。
だからずいぶんズレたはなしになることもあるかと思いますが、どうぞ、寛容にお受け取りいただければと願うところです(笑)。