ジージャー・ヤーニン応援ブログ

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特攻の、拓

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この物語がどの世代の男の子にも人気がある理由は、まあいろいろあるとは思います。
でもその核心にあるのは結局、友情というものの「絶対」を見せつけられるからなんだろうなあと思うのです。
キレイゴトで呼び合う仲間の脆さより、「引くことの出来ないもの同士にしか生まれない絆」というものの重さとでもいうのでしょうか。
合理性も生産性もなんにもない、ただその人間の根底にある熱い存在意義だけがすべて。
将来も経済も要領の良さもなにもカンケイない、「生きている」ということの本質の問題が描かれることが、このお話の魅力の要なのでしょう。
意地を持たないものは敵とすら認められないのです。
テキトーに、そのうちいつか、なんて通用しない、「いま、命懸けで、互いにすべてを曝け出す」というカンケイだけが造りうる「互いの存在の重さ」というもの。
その「自分がここにいるということの証明」を包み込む思いへの共感が、読むものの胸に響くのでしょう。
物語の中には、理屈で割り切れない、引けないたくさんの意地のぶつかりあいが描かれます。
緋崎とぶつからざるを得ない拓。
互いが親友と呼ぶ、死んでいった友達のために。
そして秀人とぶつからざるを得なくなる拓。
秀人の名誉を守るために戦い、その秀人と戦わなければならなくなることから逃げられない。
この矛盾と、その矛盾を超えてしか生まれない理解の重さと。
それらが、いろんな世代の「少年たち」の胸を打つのだと思うのです。
以下、ネタばれになってしまいますが..
物語の終盤、ルシファーズハンマーを駆る拓は、時貞の幻に見入られて転倒事故を起こします。
かけつけたヒロシとキヨシは、拓の姿(さまざまな族の意匠をとりこんだ格好)を見ても、それに頓着しないのです。
拓は要領よく理屈や説明で自分の不明を証明することなんてハナから諦めているし、それを責められれば、もう甘んじてその非難も制裁も受ける覚悟がある。
ヒロシとキヨシににしてみれば、そういう拓自身をもうとうに受け入れ、拓と運命をともにする覚悟のままにそこに駆けつけているのでした。

「いいんだよ、それよか急いでんだろー」
「ああ、いこうぜ、拓ちゃん」
声をかけられたほうの拓がとまどうのです。
「行く?あの、ドコへ? ボクは..」
その拓に対して、ヒロシとキヨシは答えます。
「オレとキヨシはいつだって拓ちゃんの味方よぉ」
「だからそんなの、きまってらあ」
「拓ちゃんの"行こうとしてる場所"さぁ!!」

...何の損得もなしに、ダチと呼ぶ、ブロウと呼べるもののためだけに、すべてを託すことが出来る少年たち
わたしがこのお話しの中でイチバン好きなシーンです。
このどうしようもない暴力と狂気と矛盾の物語にバカみたいに胸を打たれたりするのは、ほんとうの仲間、ほんとうの友情というものが、誰かの利益や都合に縛られたり、世の中のもとめる協調や貧弱な約束の中になんて決してないのだということへの共感からなのでしょう。
「間違ってたっていい、お前の味方なんだ。」
そういう友達にめぐり合うことだけに、ヒトに生まれたことの意義があるのかもしれないですね。
仲間と呼べる誰かや「仲間」と呼んでもらえる自分が、そんな安っぽいものであってたまるかという暑苦しいおもいが、どうにも魅力に溢れて描かれている大傑作、大好きです(笑)。