ジージャー・ヤーニン応援ブログ

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アルジャーノンに花束を

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映画「チョコレート・ファイター」はアクション映画であるのと同時に、自閉症という知的障害者の問題を描いた作品でもあります。
日本でも自閉症者を扱った作品はいくつかありますが、受け手である視聴者は、どうしてもこの手の作品に「お涙頂戴」を期待してしまうものでもあります。
悪い言い方ですが、ハンディーを持つことから連鎖して起こる問題に「かわいそう」という感情を喚起されることを期待してしまうということです。
映画やドラマは娯楽ですので、観劇の仕方もそれぞれでしょう。
でも、そんな「娯楽に期待する」折りにも、どうにも逃げられない「人間性の本質」の問題を突きつけられてしまう場合もあるのです。
たとえば、生活がたいへんだから、と、障害のあるわが子を捨ててしまう母は、長いその人生においてどのように救われるのでしょう?
あるいは、捨てられたことを知ってなお、母を待つ子の心は、どのように救われるのでしょうか?
これらの問題を我が身のこととして突きつけられたとき、あなたなら、どのように理解し、どのうよに行動するのでしょう?
そういうことを扱った稀な作品に、SF小説を原作とする日本のテレビドラマ「アルジャーノンに花束を」という作品があります。
この作品は、著名な海外の原作を持つ作品を、日本向け、現代向けに解釈した作品なのですが、この作品にも例によって「お涙頂戴」の要素が絡められていることには変わりはありません。
結局は、母を慕う子の「かわいそう」な物語なのです。
ただ、主人公のその感情の動きを、観る側が順を追って追体験させられることによって起こる心情とのリンクに、考えさせられるべき「人のこころの深み」が及ぶのです。
原作では、ここらへんはかなりドライなのですが、日本のドラマ版ではむしろこの感情の変遷が全体を貫く軸になっている感すらありました。
知的障害者である主人公のハルは、賢くなれば自分を捨てた母は迎えに来てくれると信じ、仲間に笑われることを「受け入れてもらっていること、愛されていること」だと理解して生きていきます。
そこに、知能を倍加する実験の誘いがおとずれ、それが幸せになる手段だと納得し、ハルは手術を受けるのでした。
結果、賢くなったハルに見えて来てしまうのは、ヒトのエゴ、嘲笑、あざけり、駆け引きの醜さ、自分の醜さでした。
しかも手術は失敗で、一気に倍加した知能は、結局は元に戻ってしまうという道行をたどります。
消えゆく判断の軸を惜しむハルは、ある行動に出るのですが..
ここからが、原作には無い、日本のドラマ版オリジナルの解釈となって行くのですが、わたし的にはその「解釈」は賛成でした。
ラストでは、わかっていても、涙が出てきます。
ドラマ「アルジャーノンに花束を」は、わたしの大好きな作品のひとつです。
いまとなっては、それぞれのキャストがこの頃の感覚で、それぞれの役柄を演じることも出来ないことでしょう。
俳優にも色は着いて行ってしまうものです。
ドラマ化にあたっては、海外の原作のため許諾までに多くの時間が掛かったと聞いています。
結果、その時期と、それらの俳優とを得たのが、この作品ということです。
ユースケ・サンタマリアの熱演が光ります。
作品作りとはまさに、タイミングと、問いかけるチカラの成せる業ですね。すばらしい。
この物語のまとめは、たしかに「お涙頂戴」には違いありませんでした。
でも、それでいいと思いました。
人間にとってほんとうに「幸せ」なこととは何なのか、このことに、それほどに短絡的な答などはありませんが、それでも、です。