ジージャー・ヤーニン応援ブログ

いいえ、女優ジージャー・ヤーニンを応援するブログですとも。

あなたの責任

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たとえば先の震災の1日前にしてもどこかで津波は起きましたか? 何か報せはありましたか?
そんなものです。
災禍は音もなく、突然、訪れます。
すくなくとも、わたしたち「市民」に対しては。
政府はまた、危険なときにも危険とは言わないでしょう。
メディア側に真実はありません。
もう、いいかげん、言うことばもありません。
みなさんがメディアに騙されませんように、と、祈るばかりです。
でもなぜこういうことに至ったのかに、わたしやみなさんの責任がまったくないとは、わたしは思っていません。
わたしはいま、みなさんに伝えておきたいことがひとつだけあります。
それは、「態度をたったひとつのかたちに決める必然なんて、実はどこにもないのだ」ということを、いま、よく知っておいて欲しいということです。
たとえば、復興を支援したい。
あたりまえの気持ちです。
でも、だから○○だ。と続くような何も、実は存在しないのです。
どんな良いことに聞こえようとも、どうか「勢い」や「空気」に流されないで、自分の心の力でよく考えてみてください。
キャッチフレーズなど、ほんとうはいらないのです。
テレビの「応援」を促すコピーへの安易な同調と、ほんとうに困ったひとたちを支援することとは別なことなのですから。
「え?じゃあどうしたらいいの?言っていることがよくわからない、支援品を送ったり、募金をすることは悪いことなの?」
ああ、どうかこんなことを言わないで。
あなたには脳味噌があるのだから。
よく考えなさい。
自分でよく考えなさい。
なぜ短絡的なイエス・ノーにすべてしたがるの?
なぜどこかに「こうしなきゃならない」という正解があると思い込むの?
当たり前じゃない、そんなこと、というのなら、その「当たり前」は、いったい誰があなたにそう刷り込んだの?
そろそろわかりなさい。
わたしたちを強いる「思考のパターン」は、戦後の教育と資本主義の社会常識で出来ていて、マスメディアで以て「答え合わせ」をして決着となるもの、つまり洗脳のたまものなのだということに。
あなたのいう「なんで?」に、どんな意味があるのか、そのこと自体を、他者にではなく自分にこそどうか、たずねてみてほしいのです。
わたしたちは、汚染された思考を植えつけられて生きてきました。
それでもまだ、自分で考える自由そのものは残っているのです。
考えることを根気なく投げ出して、行動こそ大事なんて、そんな愚かなことで止まってしまうような軽薄なこと、もういいかげんにやめてください。
生きているうえで、そんなもったいないことはないのです。
堂々めぐりに気付きましょう。
わからない、と言うことそのものを、もうやめましょう。
こころにしっかりその問題を呑み込んで、たくさんの目、たくさんの心の価値を自分の中に灯して、その問題をよくよく見つめるのです。
黙って見つめるのです。
薄っぺらいところに並べて比べて良いことと悪いことがあります。
聖書に、こんな言葉があります。
「聖なるものを犬に投ぐな。真珠を豚に与えるな。恐らくは後ろ足にて踏みつけ、向きなおりてお前に噛みつくであろう。」と。
犬になってはいけないのです。
わたしに「でも」とか「だって」とか言う前に、どうぞ、よく、ほんとうによく考えてみてほしいのです。
答えあわせはありません。
ただ、しっかりと、自分の考えを広げることが大事なのです。
だって、正しくなければ困る、とか、そんなのはウソなのですから。
正しさはただ「時代の関数」です。
なにより、間違えることを恐れたところで、あなたたちはもう、大きな間違いを犯しているのです。
証明の必要もなく、あなたたちが間違って来たということの、そのあかしは既にカンタンに示されています。
なぜなら、福島を契機に、日本がいま、こうなっていること自体が、かつてあなたがたが「これでいい」と考えてきたことの答えだからです。
正しいも間違ってるもなく、こうして突きつけられた現実こそが答えだからです。
結果は想像の産物です。
無関心も無思慮も、カタチを生んでいくのです。
あなたの考えがただしく、その想うところが生んだこうした惨事が、あなたの望んだものでなくとも、わたしたちはその責任を追わされることには違いがありません。
だからこそ、これらは「いい」とか「悪い」とかの問題ではないと言うのです。
大切なことは、何よりも「考える」こと。
考えて考えて、悩んで悩んで、苦しんで、学校にも会社にも行けなくなるくらいに、言葉も発せられなくなるくらいに痛みを感じて動けなくなる、そういう経験の先にしか真実は見えないことでしょう。
ああ、なんともめんどうくさいですね。
わずらわしい。
わたしもそう想います。
それでも、わたしには、それをすすめることしか、救いの方法は思いつかないのです。
無視していただいてもけっこうです。
わたしはもう、十分にみなさんへ「備えよう」と伝えたと思っています。
だからこれ以上はもういいません。
何を選ぶのも、それは自由なこと。
無視することも、わからない、と言い続けることも、それもまた、あなたという人間の「答え」なのですから。