ジージャー・ヤーニン応援ブログ

いいえ、女優ジージャー・ヤーニンを応援するブログですとも。

抱擁

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このところネットでジージャーの最新情報を追いかけると「レイジング・フェニックス」の次の作品のお話が出はじめていて、とっても楽しみなところです。
最初に見たのはYoutubeでの告知で、軍所属のマーシャルアーツのヒトとジージャーが紹介されて「ご期待ください!」てな感じのモノでしたが、そこから立て続けに情報が投下されはじめました。
それでもストーリーの細かな点はまだ公開されておらず、舞台や若干の配役が公表されているくらいのようですね。
いろいろ出てますが、ピンゲーオ監督のコメントのあるものとしては、ここらへんが参考になるでしょうか。
http://twitchfilm.net/news/2009/11/afm-09-marrese-crump-and-jija-yanin-cast-in-prachya-pinkaews-ta-bang-marn.php
まあ、あんまり焦らず、良い報せを待ちましょう。
省みて「チョコレート」というタイの映画が最初どんなふうに紹介されていたかを思い出すと、「ビデオをみるだけで格闘技をコピーできる少女が、悪人をバッタバッタとなぎ倒す」でした。
そこから情報のディティールが埋まるごと、興味は喚起され、期待に変わって行きはしたものの、そもそもはイロモノ的なお話のウワサが最初だったワケです。
焦ることはないでしょう、と、そんなこと言いつつも実はかなり期待してたりするこのごろです(笑)。
さて、それはそれとして、私のブログは映画「チョコレート・ファイター」とジージャーを応援するというのがテーマですので、引き続き過去のお話の意義を掘り下げて行きましょう。
次回作が出るまでに、ゆっくり「チョコレート・ファイター」を楽しんで行きたいとおもいます。
で、この映画、ラストで阿部寛さん演じるマサシとジージャー演じるゼンが出会い、次の人生の舞台へと歩んでいくというシーンで終わります。
最後に加えられるナレーションでは、「誰も完璧に生きることなど出来はしない、ましてこころに傷を持っていれば尚更だ。しかしそんな人生を救ってくれる唯一のものがある。それは、愛である」と語られます。
このシーンでは、破けたシリカゲルの袋をゼンが絆創膏で塞ぐのが象徴的です。
先にも述べましたが、このお話は全般を見れば、実はジンの生涯を描く物語でもあります。
ゼンの次の人生のはじまりは同時に、カルマで括られたジンの人生の終焉を意味するものでもあり、物語としては秀逸な出来だとおもうのですが、こういうことは今後も、制作者サイドから語られる機会は少ないことと察します。
現在、チョコレート・ファイターはアクション映画として成功を納めている作品であり、それ以外の要素に話しがブレても歓迎できない状況だからです。
ピンゲーオ監督のコンプレックスは、ドラマツルギーが弱いという指摘に対してのものだったので、この作品に関してはこのようにかなり練り込んだ様子が窺われるのですが、結局はアクション大作としての成功が前に出てしまったワケです。
しかし、これが商業作品として成功してしまった以上、評価は市場の独立した価値なのですから、いまさらコトバで「ホントはこのようなことを描いたつもりなのですが」と述べるのはどうにもみっともないことになってしまいますしね。
さて、物語の中ではゼンを慈しむ「愛」ということを象徴する伏線として、パニックに陥る度にジンが、両手でゼンの顔を抑えて抱き、慈しむというシーンが挿入(削られたハエでパニックになるシーンにも出てくるのですが)されています
そしてこれは、本来はラストのマサシの抱擁に繋がるべきものだったようです。
3度、同じ行為を繰り返すことで(実際は2度になってしまっていますが)、「受け入れる」ということを表現しようとしたのでしょう。
自閉症者は他人に身体や顔を触れられることは嫌います。
こまかな演技ですが、「ママ、起きて」と泣くゼンは、マサシに手をのばされ顔を抑えられる際も、一瞬抗い拒もうとするしぐさをします。
そこに「ゼン、すまん」という阿部さんの演技が被るのですが、このシーンはジージャーが自身のインタビューで度々、阿部さんの演技に自然にインストラクトされたと述べている部分です。
ラストのシーンでは歩いて行く親子の後ろ姿が描かれます。
繋がるのは、コトバでした約束ではなく、慈しみを感じ信じた「愛」の存在だけということを暗喩する描写です。
けっこう、ドラマとしてもスゴいんですけどねぇ。