ジージャー・ヤーニン応援ブログ

いいえ、女優ジージャー・ヤーニンを応援するブログですとも。

チョコレート・ファイター2の喪失 3

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そしてジージャー自身が「チョコレート・ファイター2」に挑むことが決断出来てなお、残る問題がいくつかあるワケです。
次の問題は、いままでに散々に言われているピンゲーオ監督のドラマの組み立てという課題なのですが、この点についても実は、わたし、まったく心配していないのです。
そもそもピンゲーオ監督のドラマツルギーやテーマについて未成熟とするのは、よく見ないのに印象で語る立場にいる連中の偏見が大部分だと感じているからです。
トニーやジージャー作品から離れたところで、昨今のピンゲーオ監督作品としてあげられる映画に「パーフェクト・スナイパー」という一作があります。
この作品は、金で殺しを請け負うスナイパーがクスリや少女売春を扱う組織と闘う、というお話しです。
お話しの端々には実は、チョコレート・ファイターのなかでも暗喩されるのみで直接は触れられていない仏教的要素、たとえば少女と僧侶のやりとりを描くというなかにそれが織り込まれていたりするのです。
わたしは、チョコレート・ファイターを母と子の、業(カルマ)、因果応報を描く物語りだと感じていました。
ジンが無慈悲に悪徳を重ねながら「しかたないじゃない」とそれを肯定した若い生き方に、仏教的要素としてやがてその報復が訪れるという図式や、それでもなお、ゼンという希望の光を、しかも自閉症というイノセンスを交え登場させるということ。
そこに菩薩の境地にいたる母の愛を交えて描くということに、「チョコレート・ファイター」の裏の深みを感じていたのですが、このことは「パーフェクト・スナイパー」という作品が発表されるまで、顕在化されることのないことでした。
「パーフェクト・スナイパー」の発表に至ってはじめて、ピンゲーオ監督は、自分の作品に仏教的意図が含まれていることに触れるのです。
いわく「タイの伝統的な信仰に背いて、多くのドラマを織り込んだ新しい世界を創造することは、伝統的価値に馴染んだ観客にとっても、そうでない観客にとっても興味深いことだと思う。」とのこと。
ピンゲーオ監督のコンセプトのドラマツルギーが弱い?
そうでしょうか。
というか、いちいちテロップを入れて、ここはこう言ってるんだよ、って解説が、やっぱり必要なんでしょうかね。
世界中の少女売春を止めなければならないというテーマに敢然と立ち向かうピンゲーオ監督の意志や姿勢には、わたしはなんらのブレも緩みも感じられません。
この監督に託していいのです。
ただ、ジージャーがいつまで監督の手元にいるべきかは、それとは別な問題なのですが。
そして残すところは、それら け撚茲離廛蹈癲璽轡腑 と セ?阿留撚萇床 の問題なのですが、なんといってもロードショーの成否はここに左右されてしまうものではあるのです。
哀しいかな、「観ていない」ものを「観にいかせる」チカラは、ここに依存するしかないのですから。
そういった意味では、映画「チョコレート・ファイター2」、製作に向けて、そして公開において、まだまだ問題山積みではあるのです。
でも、唯一、チョコレート・ファイター2の作品としての充実の鍵は、ジージャー・ヤーニン自身のこころのなかにこそあるのですね。
そしてそのジージャーの「こころ」というカタチのないものを熱くさせるのは、ほかでもありません、わたしたちの応援の声だけなのです! 
さあ、あなたなら、ジージャー復帰までのこの1年を、どう使いますか!?
ただ黙っていていいのですか?