ジージャー・ヤーニン応援ブログ

いいえ、女優ジージャー・ヤーニンを応援するブログですとも。

ふたたび、自閉症のこと。

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映画「チョコレート・ファイター2」を難しいと感じる個人的な理由は、オトナになる自閉症者を誰が描ききれるだろうと懸念するところにあるのです。
このことについていろいろ書いてみようかと思いましたが、自分の現実の経験のほうがリアルだろうかとも思い、みなさんに「ある場面」を紹介してみたいとおもいます。
もし、チョコレート・ファイター2が自閉症を正面から見据えて描こうとするなら、この現実をどう伝えるかに近い感覚が必要なんじゃないかなあ、と、ちょっと思ったりしたのです。




誰かを殴るかぎり、誰しも自分も殴られるものだと覚悟しなければいけないのだと思います。
正当も不当もありません、自分の正義が誰かの正義と同じとは限らないのですから。
横柄で傲慢なことを撒き散らす人種がいます。
願わくば、もっとも染まりたくないところなのですが、誰かにとっては自分まもた傲慢このうえないものなのだろうとも察してはいるのです。
自閉症の子供を殴りつけます。
何度も何度も、容赦なく殴ります。
やがて怯えながら、自分でわたしのこぶしをアタマに持っていこうとします。
早く終わってほしいのです。
たくさん殴られれば終わるのだと我慢してしまうのです。
何の意味も覚えないので、それがこの子にとっての最善なのです。
休みになり、おおきく生活のリズムが狂い、自制がきかなくなって暴れ出します。
いつものことではあるのですが、だからといって世の中の誰も許してくれるわけでもありません。
真夜中です、比喩ではなく家がこわれるほどの勢いで暴れ出します。
しかたなく、押さえつけるのです。
怒鳴ることなく、ただ押さえつけるのです。
膂力強く、わたしではもう抑え続けることが出来ないほどのチカラで抗い、思い立ったままに暴れるのです。
殴ります。
何度も何度も容赦なく殴りつけます。
怯えさせます。
しかし、わたしは同時に知ってもいるのです。
この子の頭の中のどこにも暴れたいキモチなど微塵もなく、ただ多動を伴って身体が振動しつづけるときの延長に、爆発的な行いがあるだけなのだと。
それではどうしたらいいのでしょう。
言葉で諭すのに6時間を費やし、抱きしめ、温め、慰めたのちにこのようになって行く現実を、どうしたらよいのでしょう。
方法はありません。
何一つありません。
これが、自閉症です。
殴ることの、どれほどに悲しく痛いことか、きっと誰にも同じ重さを持ってもらい難い苦しみです。
わけもわからず殴られるものの、どれほどに切なく悲しいことか、わたしにすらわからない痛みの中の世界がそこにあります。
神さま。
この国に戦争のない時代に、食べることや生活していくことを、怠りさえしなければ許されるこの国のこの時代に、わたしを置いてくれてありがとうございます。
しかし、わかりません。
わたしに何を教えたいのでしょう?
すべての残酷なことを経験させようと企まれたのだとしても、人をあやめることよりも痛い、こんな痛みはわたしに必要なのですか?
わたしに何をさせたいのでしょう?
苦しむひとたちを癒したいと願うものに、どうしてその真逆のあらゆることをさせようとするのですか?
痛みもなくひとを殴る愚か者を選んで、愚かなことの連鎖をさせたらいいではないですか。
なぜ、そうしないのですか?
ああ、おそらくは深い深い考えのあることなのでしょうね。
それでいいと思います。
ただ、わたしはただの人間なのです、神さまのカラダも能力も持ち合わせていないのです。
ただ、ただ、死んでしまいたくなるばかりなのですよ。
なんの深慮な叡知によるときでさえ、思い知れ、死んでしまえ、と言われているとしかとれないときすらあるのです。
そして誤解でも間違いでも、人は傷んで行ったりするものなのです。
長い長い先、やがてこう思い至ったことでさえ、ああこの日の感謝のためだったのか、と察する日は、おそらく訪れることでしょう。
それは経験が教えてくれることです。
でも、それでも、もういい、と、挫けてしまうことも、人という弱い生き物の時間の中には存在するのです。
裏切られ続けすぎて、思いやるエネルギーが漏れています。
漏れ続けて、虚しさがはびこりはじめています。
裏切られるなどということはあなたの錯覚なのだし、ダメだと思い込むのはあなたの未熟な判断だ、と、啓蒙の本なら言うのでしょうね。
ポジティブに生きることはただしいことです。
間違いありません。
それは正しいので、どうか、その正しさを飲み込めるだけの体力を与えてください。
わたしが思い至っていることはいつも、どう生きていくかではないのです。
どう、死ぬか、死ぬまでに何を残せるか、なのです。
わたしが残すもの、それは種です。
財産のはなしではなく、社会の認知のお話しでもありません。
共感を大切に生きていくことを理解できる人間をひとりでもおおく育み、その価値観の種を未来に蒔くこと、それがわたしの残すべきことだと信じています。
わたしの人生は一幕の劇ではありません。
わたしが生きていくということは、評価を待つ1作の映画ではないのです。
しかし、それを望んではいませんか?
「いま」を、ないがしろにして、映画を完成させることを大事としようとしていませんか?
わたしにはそう見えるのですが...