ジージャー・ヤーニン応援ブログ

いいえ、女優ジージャー・ヤーニンを応援するブログですとも。

ジージャーの趙雲子龍 2

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女優ジージャーに備わる要素をそれぞれに検証しなおしてみましょう。
あなたが監督なら、どのようにジージャーをとらえ、起用しようとこころみるかという観点で、いまいちどジージャーを見直してみるのです。
ジージャーに備わったもの。
その一つ目、それはアジア人の容姿を持つ女性だということ。
二つ目は、圧倒的なアクションの期待が出来る人材だということ。
そして三つ目は、世界においてはいまだ無名の隠れた実力派だという点です。
この三つ目の要素は特に重要でしょう。
映画を成功させたいと願う監督なら、新規性と質実な実力を備えたキャスティングというトピックスは理想的なヒットの材料になるからです。
そしてその適用を考えるなら、やはり一つ目と二つ目の要素、アジア人の顔をしたアクション女優という見立てでの起用が当然の流れとなるはず。
で、ここで多くの制限がはじまるのですね。
つまり、そういう女優を活躍させて確実に成功を期待できるコンテンツは、実際にはいまのところそう多くはなく、そのような冒険までしてジージャーに主役をあたえる機会が生まれうるか、ということなのです。
あいかわらずのローカルでよいのであれば、ジージャー人気への依存で新作はいくらもつくられることでしょう。
しかしタイ以外の外国、つまりはハリウッドを意識してのメジャー指向での活躍を考えたとき、ここらへんは深刻な問題になるのです。
ピンゲーオ監督下における世界へのジージャー・ヤーニン進出をめぐるプロモーションは、わたしの目にはすくなくとも、いま現在、顕在的に展開さているとは映りません。
そしてここまでの結果としては、あきらかに「負け」です。
ジージャーをとりまくプロモーションは、諸般、失敗しているのです。
このことはそんなに難しいことではなく、日本人の10人の映画ファンのうち、彼女の名前を知るものが何人いるだろうかということで容易に想像のできることでしょう。
ファンであればどうか、ここに危機感をもってほしいのです。
たしかにプライベート・ヒロインとして、彼女の描いてくれた少女のイノセンスを大事にしたいというキモチを持つファン心理は大事なものです。
でも、生身のジージャー・ヤーニンは、現実をこれからも生きていかなければなりません。
そしてピンゲーオ監督の、彼女への期待と愛情には敬意をはらうべきだという流れもよくわかるのですが、それはしかしある意味「へその緒」のようなものなのです。
大切なものではあるのですが、そこにしがみつき、すがっていてはいけません。
もちろんジージャーにしても「すがる」というキモチはないでしょうが、残念ですがここを強く意識して活動を切り換えていかないかぎり、この美しい絆は、これからの彼女への拘束に化けてしまうことすらあるわけです。
ピンゲーオ監督には、これからもジージャーのマスターとして活躍してほしいものです。
でも、危機は確実にここにあるのです。
彼女の映画人としての将来は、このまま、タイのスターで終わってしまう立ち位置でよいのかどうか、それはジージャー自身の意識と、そしてジージャーにもどうにもならない時勢に乗った「人気」というチカラによって左右されていくことでしょう。
先々のことのすべてまでは誰にもわかりません。
しかしそれがどのように不確定的なものであれ、そなえ、準備することはできるのです。
先に述べたジージャーに備わる要素を、もういちど嚙みしめて考えてみてください。
ジージャーに金髪のカツラをかぶせて端役で活躍してもらうことが、ファンの本意でしょうか。
そうならないためには、わたしたちは「いまのジージャーの立ち位置」からできることを、大急ぎでよく理解し、応援しなければならないと、わたしは思うのです。
このことは、実はこのブログでも暗に何度も触れてきているのですが、結局、アジアの人間を主人公にしようとする優れたコンテンツを最大に保有するのは、この日本なのです。
日本の用意できる「物語り」の数々こそ、実はジージャー・ヤーニン成功の最大の武器になるものなのですが、どうか、こういう問題をみなさんも、もっと真剣に論じてほしいのですね。
なんとなく、でいれば、すべては「なんとなく」指のスキマをすり抜けて過ぎて終わってしまう砂のようなものになってしまい、気付いたときにはすべて「過去」であり、取り返しのつかないことになってお終い、というのが世の常です。
ジージャーが好きなら、どうか、そんな憂き目にジージャーをあわせたくない、と、もっともっと熱くなってほしいのです。
アジアの優れたコンテンツは多くは日本にある、といいました。
でも、たとえば中国の「三国志」なんかは世界的にも知名度が高く、先年は「レッドクリフ」という大作での成功例もあったりします。
レッドクリフ」は、映画「チョコレート・ファイター」にとっては因縁的な作品なのですが(興業の比較において)、たとえば、ふたたび数年後にハリウッド発信の「三国志」リメイクがあったとします。
これ、現実的に可能性は高いと思うのですね。
ハリウッドはしたたかですから、成功するコンテンツを見逃すことはありませんし、そしてそのときには、過去作品をこえた更なる強烈なエッセンスをもとめて成立させたりするものです。
バットマン」や「スパイダーマン」のケースがその好例でしょう。
そして実際に次の「三国志」が起動するとき、かつて日本の中村獅童さんが柔軟なキャスティングにおいて起用されたように、俳優陣の魅力こそ問われる材料となるであろうということは容易に想像できるところなのです。
事実、映画「レッドクリフ」のなかで印象に残る俳優は、金城武さん、トニー・レオンさん、リン・チーリンさん程度しかいなかったというのが大問題だとおもうからです。
で、ジージャーなのですね。
わたしの考えるキャスティングは、この章のタイトルのとおりなのですが、どうかみなさんにも、こういう枠外思考をもってジージャーを考える発想を鍛えてほしいのです。
日本には、三国志を題材とした大ヒット作で「一騎当千」というマンガがあります。
この作品に出てくる主たるキャラクターたちは、ほとんどが、三国志の登場人物の生まれ変わりである女子高生なのです。
ここまでいかなくとも、趙雲を女性に見立て、それをジージャーが演じるというような柔軟な発想とキャスティングは、映画作品を盛り上げるためにはあってよいことだと考えます。
余談ですが、実際に趙雲は、生涯、女性を遠ざけていたというのがこの発想のヒントでしたが、こういう発想転換は許されるべきだと思うのですね。
真田十勇士という作品がありますが、昭和の後期から描かれるリメイクのほとんどで、三好清海入道は女性として描かれるようになっています。
こんなふうに、物語りというものはどんどん進化していくものなのです。
ジージャーと、その応援のためのジージャー出演希望作品、もっともっとみんなで煮詰めていってください。
そしてぜひ、その声を、タイのピンゲーオ監督に届けるくらいの熱を、どうか、自分たちのなかに育んでみてほしいのです。