ジージャー・ヤーニン応援ブログ

いいえ、女優ジージャー・ヤーニンを応援するブログですとも。

フラッシュバック

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今日は朝からずっとウチのゼン太こと猫太郎が「ママのお金、ママのお金」と叫んで走り回っています(笑)。
油断して朝から「チョコレート・ファイター」を流していたので覚えやがったんですねえ。
まったく、自閉症なんだから(笑)。
さて、ホンモノの映画の方のゼンのお話。
劇中「お出掛けの日」が違(たが)ったことにパニックを起こし、ジンのウィッグがはずれたのを見たゼンに、フラッシュバック現象がおこるというシーンがあります。
このシーン、みなさんには大げさなことに見えるのでしょうか?
自閉症という障害には実に多様な症状がみられ、各個人においてさえ統一的な傾向をつかみがたいものかとおもうのですが、それでも、ある種の共通点はみられます。
それは記憶の問題です。
自閉症者の記憶力というのは、一般的な健常者の何倍にも及ぶものということは証明されていますが、それ以上に記憶と感覚のあり方が違うということを想像してみてください。
精神遅滞を伴うウチの子でさえ、たとえば何年も前に一度行っただけの街のお店の売り場レイアウトを覚えていて、消しゴムの棚(消しゴム大好きなんですね)までイッキに走っていったり、何年も間があいたはずの幼少期のおもちゃの並べ方を完全に再現したり。
自閉症者は習慣を、察することからではなく記憶の応用から組み立てます。
記憶のサンプルがすべてなのです。
見ていると、目をキョロキョロさせたり、あるいは深ーく閉じたりして記憶を反芻する遊びをよくしているようで、どうやら記憶に「感覚」が伴っている様子なんですね。
これはスゴいことである反面、とても痛々しいことでもあるとおもうのです。
大なり小なり、自閉症者は幼少期にその頑固な融通の利かない態度を強く叱責される機会を何度も経験するものです。
わがままもいい加減にして、言うことをききなさい、と。
犬と私の10の約束」という映画の中に、コトバを話せない自分(ワンちゃん自身のことですね)が言うことをきかない時には、何か理由があるのです、それをわかってね、というひとつの約束が語られますが、省みてそれは人間もいっしょです。
健常者の幼少の常で、わがままのために愚図るといったパフォーマンスを想定すると、見た目、自閉症の子の態度はこの塊に見えてしまいます。
しかし冷静になって考えてみると、自閉症者がこのようなパフォーマンスに至ると考えることは、その実はあまり至当適切ではないと言えるのです。
つまり、それは健常者側の傲慢な誤解です。
緊張や麻痺や怯え、そういうことが、彼らの強い衝動原因であり、わがままとか言う類のこととは実は違うということなのです。
ストレスが高じると、自閉症者は自傷行為に至ります。
映画「チョコレート・ファイター」では、先のシーンの直後、ゼンが自分の頭を自傷で叩きながら、最後には髪をジャキジャキと切ってしまいます。
実は幼い自閉症者が髪を切ってしまうというのはよくあることなのですね。
自傷とは、自分を傷つけるということ。
他のひとに害を及ぼす例は、その例を教え込まれた(これもまた記憶の再現なのですが)場合でしか成立しないことでしょう。
養護学校などに行くと、自分が叱られた際の強い罵倒のコトバを自分で怒鳴りながら際限なく繰り返して騒ぐ子をよく見かけます。
よく、見かけるのです。
わかるでしょうか、障害への迫害は、もっぱら無理解な家庭の中から生じているということです。
言い換えれば、障害者を抱えたと嘆くヒトこそ、残念ながら迫害の張本人であるケースがほとんどだということです。
先に、彼らの記憶力は痛々しいものだと述べました。
二十歳になっても年老いても消えない、このような記憶に感覚が伴うのですから、これはもう悲劇以外の何ものでもないでしょう。
ピンゲーオ監督のコトバが思い出されます。
すべてのこの障害の子たちに、どうか無償の愛を誰もが注いで欲しいものです。
そのためにはまず、「理解」ということが最大の難関なのですが。