ジージャー・ヤーニン応援ブログ

いいえ、女優ジージャー・ヤーニンを応援するブログですとも。

こころ

母が亡くなったあと、部屋を明け渡すための片づけを黙々と続けていたときの出来事のお話です。
このころ、わたしは自分の「死」について考え、そう、深く深く考えて、驚いたことにその答えにたどり着きます。
カンタンにいえば、ヒトが死ぬということ、つまり生きていたということの意義は、何かを残すためや何かを成すことにあるのではなく、生きている時間の中で、せいいっぱいにヒトとヒトの中で気づいていく「共感」の中にしか無いのだ、ということです。
でもこの答えは、たぶん、ほとんどの方には理解されないものだとも察します。
つまりこれは、読んでいない推理小説の犯人を教えられるのと同じで、経験の先に見出さなければ熱を持たないということなのだとおもうからです。
でもね、たぶん、あなたも、最期の最後は、きっとわかってくれるとおもっていますよ、ハイ。



荷物の片づけは続きます。
黙々と、いろんな思いがこころを過ります。
母が亡くなってからいつも、あるひとつのことにつきあたる自分です。
それは、生きていくことの中にある「共感」という問題です。
母の大事にしていたものは、いったい、誰が大事にしてくれるのだろう?
あるいは、誰が母を覚えていてくれるだろう、と。
いえ、わかってはいるのです。
確かに、この答えはとても儚いものですね。
慰めの言葉で飾っても、埋まらない真理が見えてしまいます。
でも、だからこそ、その意味や意義を見つけることこそ、つまりはヒトが「生きていく」ということの真実を見いだすことこそが、自分の生きていく仕事なのかなあ、と感じるこのごろなのですが。
そんな小難しいことを考えながらも、手を休められません。
ふと、目がとまります。
母の形見になった、いつも持ち歩いていたお守りや薬を入れて歩いていたバッグの中に、水玉模様の封筒がありました。
なんのことはないのですが、娘の、つまりは母の孫からのたわいのないお手紙です。
「月曜日のおばあちゃんのうんせいは、白色黄色ベージュでーす。」
「北東、南西がいいよ!」
「おばあちゃんお元気ですか、わたしは元気がありすぎてこまっています。ネコのエンジェルとウサギのみみこ、こんどはどちらをもっていこうかな?またてがみくださいね」
たくさん、ネコやウサギの絵を書いているお手紙です。
私は、それを見つけて、ぼろぼろと涙を流してしまいました。
母が亡くなる前には、娘はもうケイタイでメールを送るような歳になっていました。
言い換えるなら、お手紙をたくさんのひらがなでおばあちゃんに送る孫自体、もう、どこにもいなかったはずなのです。
でも、母の中には、そういう感性のままの孫がこころの中にいて、そのあかしの「お手紙」がずっと身近なもののなかに潜められていたのですね。
ああ、これはなんだろう?
理屈でいくらもわかっていることではあります。
でも、誰の心理学の本にも書かれたことのない、自分にしかわからないヒトの生きることのあたたかな真実が見つかるのだとするなら、おそらくは、ここからはじまるのだと思うのです。
自分の、ここから先の生きて行くことへの「こころへの餞」が、ここに何かしらあるような気がしました。