ジージャー・ヤーニン応援ブログ

いいえ、女優ジージャー・ヤーニンを応援するブログですとも。

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昨日のことですが、仕事でタイに赴いた友人から、少しばかり日本人視点でのあちらの現状を聞く機会を得ました。
日本から進出している企業の工場は、稼働はしているものの構内は洪水で出てきた廃材などで溢れているのだとのこと。
保険の対象となり補てんされるため、検証が終わるまでそういう状態なのだということです。
そしてその廃材はすでにインドの資源扱いの企業が買い占めしているのだとのこと。
このお話しを教えてくれた友人も資源関係の仕事の方ですが、日本人の感覚からいうと、被災のすぐあとにハイエナのようにビジネスを持ち出すというのは気が引けてしまうところなのですが、それぞれの国の感覚の違いで自分たちは出遅れてしまいました、とのお話しでした。
2011年は世界中が様々な災害に見舞われました。
それを経てわたしたちのこころの中に、助け合おうというおもいが生まれたのも事実です。
でも金銭や経済の面で考えると、報道されないいろんな動きが見えてきたりします。
東北の復興にしても、メディアがつたえない暗黒がいろいろと聞こえてきたりして複雑なのです。
わたしの会社の本体は福島のいわき市にあるのですが、そこから東北方面にかけては、去年から商売の歪んだ豊かさが聞こえてきてしまうのです。
賠償や保険のおげで生じたお金は、困窮した生活にあてられているのかといえば、もちろん、多くはそうなのでしょうが、ただそれ以上におかしなことが起きています。
わたし自身はこの話を最初、自分の会社の社長から聞いて驚き、そののちに自分なりに調べてみて愕然としたものです。
恥ずかしいことが起こっています。
どうぞ、このことはみなさんもご自身で調べ、ふれてみてください。
東北はもうおかしくなっているのです。
享楽的なことへのお金の無駄遣いや、意識のズレがおおきく生まれ始めているのですね。
もっとも顕著なのはパチンコ屋さんの繁盛具合です。
苦しい中の気晴らしレベルではなくて、もはや異常な好景気なのですが、それはそのままクルマの需要やら生活のバブルな貪り方にも見えてくるのです。
働かなくても、働いていたときよりお金が入ってくる、ボランティア依存で、本人たちは怠けてなにもしない、皆が「たいへんですねえ」と言ってくれることに甘んじて遊びほうけ、都合のよいときだけ被災者になってしまう。
いまでも支援でいろんなものが届くのですが、そのときには都合よく長蛇の列となり、液晶テレビが届けばみにくい奪い合いがはじまるそうです。
これはこの国の歪みの顕著な戯画のような気もしています。
中部地区に住むわたしたちは、ほんとうに東北復興を願っていまも募金やら活動やらを続けているのですが、これらの行為はどこに着地するのでしょうね。
日本では、東北の被災以降、絆というコトバがはやりました。
わたしはこれにちょっと疑問をもっていたのです。
同様にAKB48さんの「夢はかなう」にも、とても不安なものを感じているのですが、このことはまたあとで述べたいとおもいます。
「絆」というコトバは、繋がりということを顕すのは事実ですが、もともとは家畜や動物が逃げないように木に縛りつけておくという意味です。
拘束の依存です。
コトバの音のキレイさに何か酔ってしまい、人間のこころのほんとうに成すべき真実がはげ落ちてしまうことを許してしまう濁りが感じられるのです。
こころに真摯なものをたたえて、前にすすんでいくチカラを培っていく生き方。
そのためにはしっかりとした目標が、人間には必要なのかもしれません。
それでは東北の復興というのは「しっかりとした目標」ではないのでしょうか?
もちろんそんなはずはなく、現にたくさんの人々がそのために奔走し、文字通り命懸けで頑張っているのです。
でも、そういうことはいままでもどこにでもあったのです。
たとえば本気でこの国をよくしたいと考える学者や政治家はいくらも存在するでしょう。
でも問題なのは、そういう人間の立ち位置に寄生して「そうだそうだ!」と便乗のヤジを飛ばしながら尻馬にのり、記号化されたスローガンに納得してしまうこころの薄い輩のほうが圧倒的に多いのだという事実なのです。
人間が生きていくことのなかで一番大切なことが、仮に、経済的に成功し、栄誉を手に入れ、裕福な生活に至ることだとしてさえ、これはおかしなことではないでしょうか?
わたしは、世界のどこかに自分を置くことの出来る隙間を見つけて、世界中のどこかで自分のコトバを必要とする誰かのために思いを発信するということが、自分の仕事なのだとおもっています。
それは偽善なのかもしれませんが、少なくともわたしの中では揺らぐことのない思いではあります。
スローガンに振り回されないこころが、わたしのなかには強く根をもっているように感じます。
だから逆にいえば、日和見なことが出来ない頑なさも強いのです。
いずれにせよ、ヒトの見本にはなりえない身です。
多くのヒトが生きていくために、手本や見本となる顕在的な人生を強いられる人も、世界の中には常に一握りほど存在するものです。
そういうひとたちの人生は、英雄として括られる一方で、激しく苦しいものだとも思います。
そんなひとたちの心の動きは、他者によく見られ、何千何万もの人間のこころに働きかけて世界を動かす原動力に化けて行くものでもあります。
願わくば、そういうひとたちの「こころ」というカタチのないものが、崇高で真摯なものとして輝くものであれば、そんなすばらしいことはありません。
わたしにしてみると、そういう大切なこころの中の場所に、あの真摯な眼差しをもつ少女がいるのですが、いろんなひとたちにとっても、彼女の真摯さは価値のあるものだとも思うのです。
優れた見本が、結局は世界を動かしていくことの原動力なのです。
だからこそ「見極め」が大事なのですね。
こんなふうに「優れている」はずのものが、がらん堂のスカスカのしろものだと、こういう問題に至り、そういう餓鬼道のような世界をつくっていってしまうことになります。
すべては手本、見本の責任であり、また、何を手本として選び、何に耳を貸したか、という、人間のこころの深さの問題の結果なのでしょう。
わたしは、自分がジージャーや、彼女のような心の深い人間たちを見出し、出逢えていてよかったと、いまさらながらに深く感じたりしています。