ジージャー・ヤーニン応援ブログ

いいえ、女優ジージャー・ヤーニンを応援するブログですとも。

2020年

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おそらくは、2018年にジージャーのもとを訪れる企画のひとつが、ジージャー最大の代表作となる一作になるのだと思います。
その作品の世界的評価は、たぶん、2020年になることでしょう。
なので、その作品の製作は2018年から2019年にかけて、となる見込みが高く、その意味ではこの前後、ジージャーが世界のどこにいて誰の目に触れているか、ということこそが、もっとも重大な要件ということとなるわけです。
このおはなし、実は何年も前に、このブログで触れさせていただいてる絵空事です。
で、その絵空事でとりあげている日時すら、もう近くまで来ているということなのですが、逆にいうなら、このブログもそれだけ長い、ということになるのですね。
ジージャーのここまでの活動を、ひとつの「かたまり」としてとらえると、そのスタートに伴った「資格」としての栄誉と、それからの苦節、というリズムがよくみてとれるのですが、それならばそれであたりまえのこととして、そのリズムの先には「開花」としての成功が待っていることとなるのでしょう。
映画「チョコレートファイター」を評したひとびとの口からは、当時、示し合わせたかのように「ハリウッドで通用する」という言葉が聞かれたものです。
その可能性が、容易な開花を成さなかった理由は、ある部分では映画会社、ある意味ではピンゲーオ監督の力不足、ジージャーの魅力を広報しきれていなかったその当時のスタッフ等の怠慢にあったのであって、ジージャー自身はどの作品においても、驚くべき集中力で傾注し、ベストを尽くしてきたのです。
報われない理由がありません。
では、あとは、どのように「開花するのか」ということが大事になるのです。
そしてこのことについても比較的容易に想像できるのですが、それは優れた原作に背景をもとめる作品と、すぐれた位置を占めた作品のリメイクとの、どちらかになることごと察します。
むずかしいことではありません。
世界中の映画の勢力は、そもそもいま、この2つの流れのいずれかに沿っているのであり、世界を相手にしようとするとき、「大前提たる世界観」がオーソライズされていることが当たり前に好ましいからにほかなりません。
読み手を無視しつつ、このブログでは引き続き「コンテンツ」について語り続けるつもりですが、そういうお話のなかにどうかみなさんも、ジージャーがいかに当てはまるものか、ということの想像をたくましくしてみてほしいのです。
あるときは、恋に悩む少女。
またあるときは勇者で、しかも男性。
またまたあるときは、アクションのできる美人OL。
またまたまたあるときは、殺人鬼に。
俳優であれば、いずれの可能性も目の前にあるということを自覚すべきであり、すくなくとも、アクション依存のみでジージャーを活用しようとするこころみこそ、その実、もっとも凡庸にして見え透いた配役なのかもしれません。
そういうことを、イメージしながらどうか、彼女の活躍を想像し、願ってほしいのです。
なによりも、大事なこと。
それは想像してみること、誰かが想像するということなのであり、建てられることを想像されなかったビルが建築されることは永久になく、夢見られたことのなかった映画が製作されることもまた、永遠にありえないからです。
すべてのエネルギーは、ひとが想像するという動機のためにあるからです。
さあ、がんばれジージャー!!
応援してる。