ジージャー・ヤーニン応援ブログ

いいえ、女優ジージャー・ヤーニンを応援するブログですとも。

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最初にお断りしておきますが、この「参考」シリーズでは、とりあげるその映画の興行成績を評価基準におくのは二の次とさせていただきます。
というのはほかでもないのですが、ひとつの映画の最終の「刈り上げ」成績というのは、ロードショー評価だけでは括れないという事実があるからです。
たとえばテレビ放映で圧倒的な支持を得て評価が変わる作品というのもたくさんあり(カリオストロの城とかがその典型例ですね)、そうした機会を得て変わっていく映画(マッドマックスがそうですね)や、公開を経てそののちBD/DVD販売が成され再評価される作品も(われらがチョコレート・ファイターもそうした作品のひとつでしょう)、世の中にはあまたあるからです。
映画作品の創造のその最初の「サイコロの振り出し」というのは、あたりまえですが、まずは誰かのアタマの中ではじまるわけです。
こんな作品を創ってみたい、と。
ただ、残念ながらそのきっかけが常に情熱に満ちていて、これを「あらわそう」と燃えて着手されるのかどうかというと、現代においてはむしろその逆で、企画として当たるかどうかという始点から着手されるもののほうが多いようです。
その典型が、いわゆる原作モノというカテゴリー分けになるのでしょうけど、そうしたなかには「トーキョートライブ」や「ルパン三世」、「進撃の巨人」の実写化などのように、これなら、造らないほうが良かったのでは、と言える作品も少なくありません。
いまの時点で言うのなら、この「進撃の巨人」を観ようと劇場に向かった層のほとんどは、原作のマンガや先行したアニメ作品を見ているひとびとでしょう。
かつて、マンガ「進撃の巨人」のインパクトは絶大でした。
しかし、そこがまったく活かされていない。
理由立てもなく襲い来る巨人の恐怖、という「何故!?」を共有することではじまるお話なのに、実写化されたあの巨人の描写の異常なお粗末さには興ざめです。
ファンに対する冒涜でしょう。
ですが一方で、こういう「原作・企画もの」には、手頃な俳優、女優が集わされるのも常で、この作品の沿革がもう少しアジア寄りにひろがるのなら、キャスティングにはジージャーが組まれてもおかしくはないのです。
つまり、適当な作品に呼ばれる位置付けの、中途半端な知名度を使える女優として、という意味で、です。
この現実に、危機感をもってほしいと思うのです。
ジージャーは、ぐだぐだの作品で回を重ね費やすような時間を持ってはいけないというのは、こういう評価が確実に培われてしまうからにほかなりません。
一方で、「海街diary」や「ホットロード」のような作品がアジア寄りにキャスティング枠をひろげるような、つまりはリメイク的にタイや韓国が舞台になったとしても、ジージャーが起用される可能性は圧倒的に低いと思うのです。
なぜなら、ジージャーが演技派の女優の可能性をもつことが、結局はいまだどこにも証明されていないままだからです。
そこから生じる簡単な考察ですが、ジージャーがいま選ぶべきなのは、間違いなく自分の可能性のすそ野をひろげ、その認知をすすめるべき作品への関与です。
ここを怠っている現在、つまりいまのジージャーの活動の延長に、ジージャー自身のその魅力と才能を開花し昇華する作品にめぐりあうことは無い、ということになってしまいます。

進撃の巨人
海街diary
紙の月
幕末高校生
トーキョートライブ
モンスターズ
女子―ズ
舞妓はレディ
ルパン三世
ホットロード

一方で、タイやその他の周辺国にて、「紙の月」や「女子―ズ」、あるいは「モンスターズ」のような作品にめぐりあえるのなら、ジージャーの可能性はひろがることでしょう。
特に「モンスターズ」は、原作こそ韓国映画ですが、こういう傾向の、つまりはアクションと演技の兼ね合いを備えた作品こそ、実にジージャーにふさわしい作品だと思います。
「女子―ズ」は世界で受けるとは思いませんが、ジージャーの演技の幅をひろげるには恰好の材料を散りばめた作品です。
ただ、残念ながらこうした感覚は邦画というか日本の作品独特のもの(ハリウッドのコメディはもっと軽いし)ではあるので、触れる機会、活用する機会はともに得難いとは察します。
あとの作品はどれも、邦画のモラトリアムな面を強くもちすぎていて関わる意義を見出せませんけど。