ジージャー・ヤーニン応援ブログ

いいえ、女優ジージャー・ヤーニンを応援するブログですとも。

ジージャーへの贈り物 2

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ピンゲーオ監督作品の評価のうち最大のものは、その超絶アクションの撮影という点に集中するのではないかと思うのですがいかがでしょうか。
そして逆に、同監督の最大のネガ評価は、作品のストーリー性の弱さという点でしょう。
たとえば日本国内での作品撮影では、ピンゲーオ監督作品のようなアクションの撮影は、質実許されることでもありませんし、むしろ非難の対象となってしまうことでしょう。
これはしかし、タイ作品の「強み」でもあります。
他の作品が特殊撮影やCG、ワイヤーを駆使すればするほど、タイのピンゲーオ監督作品の凄惨なまでのリアルさは彩りを濃くします。
しかし残念なことに、俳優陣のアクションの必然を全面に出すほどの、観客が強く共感するほどの「物語り」というものがそこには成り立っていないのです。
ピンゲーオ監督作品のうち唯一、観客の胸に迫るほどの特別な痛みを伝え得た作品、それは言うまでもありません、ジージャーのチョコレート・ファイターでした。
もっとも主人公のセリフの少ない、もっとも無垢な女優が演じたその作品が、計算以上の成果をあげて(公開当時タイでは、チョコレート・ファイターレッドクリフをうわまわっているのです)わたしたちに届いたのです。
どんな映画であれ、スタッフは実に大切に考えているものだと察します。
もちろんこの「チョコレート・ファイター」も、長い年月をかけて皆が文字通り必死になって作り上げた作品には違いありません。
緻密な計算と努力の研鑽のうえに成り立った作品です。
ただここで誤算だったのは(いや、その実は計算づくだったのでしょうけれど)、この映画が自閉症という特殊な問題を絡めながら、その難しい障害を新人のジージャーが期待以上の演技でわたしたちに見せてくれたという点でした。
実はピンゲーオ監督は、この作品の前後での自己の作品に対するネガ評価、つまり「物語り」が弱いといわれていることをよく知っていました。
それでも、自己の要求するアクションとそうした物語りの「演技」の両方をこなしうる大札を、この時点ではトニー・ジャーのみに頼らざるを得ない状況だったのが実情だったのでしょう。
で、ここにきての秘蔵っ子のジージャーの登場でした。
ピンゲーオ監督はまず、彼女の可能性をさまざまに伸ばすことを思いついたのでしょう。
あるときは別な監督に彼女を託し、あるときはコメディーを学ばせ、あるときは外国との合作を経験させるなど、道はまだ途上です。
ジージャーの成長はめざましいものがあります。
しかしジージャーがどれほど成長して行ったとしても煮詰まることのない、ある大きな問題がいまだ残されたまま、ここに燻ってしまっているのです。
それはやはり、「物語り」の質という問題なのです。
よい「作品」という定義にはいろんな要素が絡むものではありますが、それでもひとつだけハッキリと言えることは、つまらない物語りなら誰も共感はしてくれないという現実です。
ジージャーをよい作品に出演させてあげたい。
そうどれほど願っても現実的には、わたしたちに出来ることはかぎられます。
でもそんな限られたことの中にも、わたしたちが日本にいるということで成すことの出来る一条の光明にも等しいある「情報」の発信があったりするのですね。
それはこの国、日本が今日までに生み出してきた、多彩かつ大量の「コンテンツ」の存在を打ち上げて行くということです。
もし、わたしたちが万が一にも、ジージャーとピンゲーオ監督に何かを贈れるとしたら、そしてそれが
わたしたちにしか出来ないものだとするなら、それは紛れもなく、「よい作品」をジージャーにあてはめて考えてあげるということにほかならないでしょう。
マンガ
アニメ
小説
ゲーム
たくさんのすぐれた「原作」がこの日本には存在しています。
それらのうち、主立ったものは日本通のピンゲーオ監督自身も把握されていることとは察しますが、その莫大な作品群が帯びたそれぞれの熱気の実態の詳細を熱く伝えてあげられるのは、誰でもない、わたしたちだけです。
こんなこと、もちろん届かなくても、かなわなくても良いのです。
だって「応援」なのですから、製作スタッフではないのですから限界はあることでしょう。
でもいいじゃありませんかそれで、声を大にして教えてあげましょうよ。
さて、みなさんはジージャーに何を、誰を演じてほしいですか?