ジージャー・ヤーニン応援ブログ

いいえ、女優ジージャー・ヤーニンを応援するブログですとも。

チョコレート・ファイター2の喪失 1

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ちょっとピンゲーオ監督のキモチについて考えてみましょう。
監督であるかぎり、そのメッセージはやはり「作品」によって発信されるものです。
そうすると、昨今で顕在的なのは「パーフェクト・スナイパー」という作品なのですが、みなさんはこの作品をご存じでしょうか?
この作品へのアプローチから、チョコレート・ファイター以降にピンゲーオ監督が感じていることの方向がなんとなく見えてくる気がするのです。
ピンゲーオ監督の、チョコレート・ファイター以前のコンプレックスは、作品のドラマ性の弱さへの評価者たちによる指摘でした。
でもここらへん、ずいぶん偏見に満ちているのですよね。
チョコレート・ファイター以前の作品にしても、かならずしもストーリーが弱すぎて、香港映画のように辻褄があわないなんてことはまったくありませんでした。
たしかに、よりよくなることは大事です。
もっとドラマを、と求める流れは必然としても、実はここらへんの評価者の勝手な垂れ流しは、そもそも正当ともいえないのです。
それはほかでもありません、チョコレート・ファイターへの評価の際に発露します。
彼らは結局、ただの勢いで監督を揶揄していただけなのです。
何故か?
それは、そんなふうに言っておけば無難だからなのでしょうね。
チョコレート・ファイターの冒頭には、そもそも自閉症という問題をとりあげていることについての重い決意が掲げられています。
わたしの評価の軸にあるジージャー評も、そもそもは自閉症者の演技の秀逸さにあるのです。
これ、批判するひとたちのどこに掠っていますか?
見てないじゃないですか。
にもかかわらず、つまりはドラマを観るチカラそのものが自分たち側に欠如しているのに、引き続いての彼らの言い分は「ドラマがダメ」でスタートしました。
数年が経過し、映画「チョコレート・ファイター」は、映画評価の方たちが述べた批判とは関係なく、観るものを強烈に惹きつける魅力的な作品として受け入れられて行きました。
驚異的なアクションと同時に、少女のイノセンスが観るものを魅了してひとびとのこころのなかに届いたとき、評価者の弁は二の句を継げていないままなのです。
このブログを覗きに来てくださるみなさんは、当然、ジージャー、ひいては映画「チョコレート・ファイター」をご存じのことと思います。
では、みなさんは映画「チョコレート・ファイター」を、何らのメッセージもない、主演女優のシロウト演技が見苦しいB級映画だと言われて、それを認められますか?
これ、初期のチョコレート・ファイター評です。
いや、いまもそのままで止まってる映画関係者たちはいっぱいいるのです。
そんな海のなかを、ピンゲーオ監督作品は泳いでいかなければならないのですね。