ジージャー・ヤーニン応援ブログ

いいえ、女優ジージャー・ヤーニンを応援するブログですとも。

「映画」について思うこと 2

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なんというかどのジャンルであれ共通で、おもしろくない映画というのはいつも「向いている方向が間違ってる」というトコロに原因があるように思うのですね。
たとえば「チョコレート・ソルジャー」です。
これ、いろんな「すぐれた部分」のパッチワークです。
しかも下手くそです。
大好きなジージャーが主演の、チョコレート・ファイターの次ぎの作品である「チョコレート・ソルジャー」、これ、位置づけとしても重大な作品でした。
今後とも、この作品はそういうポジションでとりあげられ、語られます。
安易な作品批判はしたくないと思います、なぜなら、たとえば「物語り」というものは、その内容と個人のシンクロの問題や、比較するものとの問題など、いろんな背景にも彩られるものだからです。
単純に「チョコレート・ファイター」との優劣で批判するのは間違いでしょう。
でもそれとは別に、この作品、大問題が見受けられます。
感動も促されたりするのですが、ダメなのです。
なんででしょうか?
それは、観るものの側が、ぜんぜんキモチを入れられない作品になってしまっているからなのです。
でもジージャーの演技は公平に評価されるべきもののはず。
たしかに、ジージャーのアクション、本作でも素晴らしいですし。
でもそういうことではないのですね。
公平ということをどこに定義するかは大事なことですし、世の中はそこにこだわったりもします。
でも公平な評価のなかで本来は語られるべきものが、個人のもつ背景の印象との比較から安易に語られる不公平も多いものです。
「正しさ」が、こだわりの着信点でもなさそうだということは、みなさんも覚えておくべきことでしょう。
世の中はただ、公平に「こだわり」たいだけで、結果は関係ないどころか、むしろ不公平のなかで気まぐれな好き嫌いや自分への有利をこそ望んでいたりするのです。
これ、いまの「バッドアス」評ですね。
とりあえずギャグ批判とチョコレート・ファイター比較で括っておけば空気読んでるみたいなことになってます。
要は、その作品自体として、おもしろかったかどうかなハズなんですけどね(笑)。
黒沢監督の映画で「夢」という大作があります。
これがまあ、とんでもなく「おもしろくない」のですね。
思いつきのパッチワークなのは勝手なことで、別にやり方が間違っているのではないと思いはするのです。
でもとんでもなく「おもしろくない」のです。
何か見方が間違っているのだろう、気付きが自分側に欠けているのだろう、あるいは感性が足りてないからなのか、なにせ巨匠の作品だ、そんなハズは、と、もう何十年も見直し続けてますが、いや、これがまあ、おもしろくないのです。
どうしてなのか、は、いまはもうわかっています。
これ、向いてる方向が間違っているのです。
こんな感じでいいだろう、とか、誰かがこういうことを受け取ってくれるだろう、とか、そんな「真摯さのベクトル」の適当さが、そのまま「訴えるものの脆弱さ」となって、観るもののこころのなかに届かない原因になっているのです。
この逆もまた真で、どんな予算のかかっていない未熟な作品であれ、こころに訴えるものがしっかりとしていれば、メッセージの具体性とはカンケイなく、その作品は昇華されたりするものです。
新人監督やメジャー指向をひそめてナナメに構える映画人とかは、この10年くらいのあいだはよくゾンビ系の映画を撮りたがります。
ゾンビが悪いとか、そういうハナシではありませんが、いいかげん、こういう風潮に甘んじるところから抜け出さないと、次の世代の映画という文化はダメになっていくかもしれませんね。
観るものの評価の質も低くなり、作り手の熱の方向も自己満足の擁護の域から出てこなくなる。
こんなことではジャンルとしての映画という文化が終わって行ってしまうでしょう。
情熱と優れたプロモーションを渇望します。
映画は大切な文化です。
進化は、個人からでも発信できるのだし、予算をかけないときにでも良作を描くことは成せるはずなのですから。