ジージャー・ヤーニン応援ブログ

いいえ、女優ジージャー・ヤーニンを応援するブログですとも。

ジージャーとジーザス 2

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作品全体俯瞰の視点から、ジーザスの魅力をトリミングし、そこに「ジージャー・ヤーニンの強み」を掛け合わせて、あえてステレオタイプに作品の「旨み」を定義してみるなら、おおよそ、以下のような感じになるでしょうか。

昼はキュートなダメ教師。夜は泣く子黙るハイスペックソルジャー。この先生、神にも悪魔にも愛されすぎ。

主人公の「職業、殺し屋」という、本来はキャッチーだった要素を、現代解釈上、アサシンやヒットマンとして限定して描いてしまうと、物語は途端に窮屈なものになってしまうことでしょう。

もちろん、この物語の根幹を支えるヒューマニズムや、運命の輪が紡ぐ因縁の展開が作品構成の主軸であることに変わりはありませんが、まずは徹底してクールに定義された主人公が、どんどんファニーに変貌していく様子と、それでもなお湧きあがってくる優秀なルジャーとしてのアクションとのギャップ、それこそが、ジーザスをジージャー・ヤーニンが演じるべき、とする必然の部分なのですね。

かわいいのにスゴい、という、チョコレート・ファイターのオマージュともいえるそのギャップのワクワク感の再現と、10年の歳月のなかで彼女が身に付けた、あらたなガンアクションの可能性の開花と、そして年齢に相応、かつ、女優としての資質が試されながら、世界のどこで公開されても前提を受け入れられやすい、教師という役柄。

だから、これ、ジージャーに!ということなのですね。