ジージャーとジーザス 3
先に触れたように、ジージャーの側からジーザスへのキャスティング上の魅力をイメージするなら、なによりもまず「ギャップ萌え」依存が成り立つのだろうなあ、と、容易に想像がつくのです。
主人公の殺し屋、ジェイは、藤沢という亡くなった人間に成りすまし、強奪した1トンのヘロインを武器にある目的に挑もうとするのですが、この「成りすまし」が、彼の運命を大転換させることになります。
教員採用に合格していた藤沢は、ジェイの入れ替わりと同時に新任教師の職に就くこととなり、しかも強奪したヘロインの隠し場所が、彼が赴任するその高校の黒板のなか、と、ジェイはもはや学校へ赴くことから逃げられない状況に。
先生というシゴトに心得も無ければ適性も無いジェイからすれば、学校も生徒もフツーのヒトとして振る舞わなければならない生活というのも、いずれも緊急事態であり慣れるものではなく、失敗の連続です。
超一流の殺し屋が、新任のダメ教師。
まずはこのコケティッシュでファニーなモチーフを最大限の解釈で広げ、演出をころみます。
で、ここで思い出してほしいのです。
チョコレート・ファイターという映画の最大の魅力って、だれがどうみても、あの少女があのアクションを?!という意外性、そしてその大胆なアクションへの驚愕、感嘆という、いわゆるギャップに、その多くが集約されていたのではないか、という点です。
こう考えると、ジージャーの強み、このジーザスを演じるにあたっては、けっこうストライクど真ん中で発揮できそうな配役ではないでしょうか。
加えて、教師、という役柄。
少女のイメージが刷り込まれすぎたジージャーにとって、実にこのましい脱皮の役割をこなしてくれるものになるのではないかと想像しているのですが。