ジージャー・ヤーニン応援ブログ

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ルパン三世 Green vs Red 2

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ルパンに憧れた子供たちは、時の流れと共に社会人となり、やがて仕事とクルマと自分たちの生活の場所を手に入れて行きます。
そしてその代わりに、ある大切な何かを受け渡してしまっていました。
私たちはもう、「自由」に憧れることにすら理由をつけてしまう自分に納得して行くのです。
家族のため、自分のため、目標のため、と。
そう言って自分を納得させ、やがてそれが、あたかも最初からそうだったかのように忘れてしまうくらいに、慣らされ、変わって行ってしまうのでした。
そしてルパンのことも幼かった日の憧れのすべても、心の片隅の飾りにして、叶う夢だけを凝視することで生きて行くのです。

「少しはましな連中を、むやみに一緒にしてみても、カゴは一向、陽気にならぬ。」

私たちは、自由を諦め、諦めたことすら忘れたのです。
そんな私たちが集まって、しかたない、しょがない、まあね、を繰り返し続ける世の中が、どうして愉しくて希望に輝く自由なものになるのでしょう?
なるはずがないのです。
何かがなまぬるくて、本当にこれでいいのかな?と、自分に問いかけたくなる、そんな夜が私にもあります。
そんなとき、ふと、思い出すのは、子供のころに見たある「ルパン三世」の映画のことです。
そのころ、ルパン三世にはふたつの劇場版がありました。
最初のテレビの「ルパン三世」が終わり、期待した新しい「ルパン三世」にガッカリさせられていた最中、ルパンのあのイキなセンスを取り戻すためと鳴り物入りで作製された大一作目の映画「ルパン対複製人間」。
私が会いたかったのは、あんなルパンではありませんでした。
ちょうどテレビの新ルパン三世も終盤近くになり、もう興味まで薄れかかったころ、その映画は突然、私の前に顕れたのです。
そこには、自由と自分を諦めない、あのルパン三世が、そして次元が、五ェ門が不二子がとっつあんがいたのです。
打ちのめされました。
これです、これが「ルパン三世」なのです、私が憧れたルパンだったのです。
その映画のことは、心に深く刻まれました。
映画の主題歌の「炎のたからもの」は、詩だけを読んだときは、とても地味なものに思えたのですが、大野雄二先生の曲がこの詩に生命の息吹を吹き込んだとき、それは私の心の痛みを癒すほどの傑作になって行きました。
素晴らしい物語が描かれ、届いたのです。
舞台は1968年のカリオストロ公国。
その映画のタイトルは、「ルパン三世 カリオストロの城」と言いました。