ジージャー・ヤーニン応援ブログ

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「チョコレート・ファイター2」を考える 3

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続編といえども一本の映画である限りは、その一作をはじめて見る人にも理解できるものとなっていなければならないという物語の原則からは逃れられません。
そして物語というものには原則として「狂言回し」という存在が欠かせないのです。
これはつまり、観客へのガイドを担うキャラクターですね。
一作目の「チョコレート・ファイター」では、この役はちょうどムンに割り当てられるところが大きかったと思います。
常識的な視点を持ち、主人公へのシンパサイザーであるということが条件です。
この役割を担うキャラクターを軸として、主人公の能力の度合いや趣向や推定年齢を観客に想像させたりするわけです。
だから逆に言えば、この狂言回しの視点は常に新鮮でなければ、観客への「共感」は促しにくくなるということでもあります。
その点から考え合わせて行くと次回作「チョコレート・ファイター2」では、おそらくはムンは出てこないことでしょう。
彼を通じての視点にはもう、見る側に「慣れ」が生じてしまっているからですね。
そしてその代わりに次回は、日本人の男子で、ゼンの障害の特徴を知っていて、かつ好意を持ち、ゼンの行動を放っておけなくなる、学生くらいの年齢のひ弱なキャラクターが、ムンの代わりに用意されるであろうとことが想像できるのです。
この必然はまず、日本が舞台であるという点から、日本人視点の共感を促すため、そしてターゲットとする顧客層を想定すべく(女優としてのジージャーに好意をいだくであろう年齢層の代表者を抽出するということです)日本人のオタク系の男子ということに至るワケです。
もちろん、ゼンより強かったり、アクションが出来てしまっては本末転倒ですので、ここは「ひ弱なオタク系の」という括りが好ましいということになります。
次は、その男の子とゼンがどのように出会うか、ということでしょうね。
そして出会わせてしまえば、物語はいくらでも膨らみます。
まずは日本風のファッションを強いられたゼンのルックスを完成させ、ゼンを(新宿や秋葉原などの)人混みの中に押し出すこと。
自閉症一般がそうですが、ちょっと見た感じだけでは顔にも姿にも障害は見えないため、健常者と勘違いされたりするものです。
その段階での、おしゃれに装わせたゼンのルックスは、日本人の男の子にはどストライクな可愛らしさに映ります。
迷子のように戸惑い、言葉に不自由がある、可愛らしい容姿の異性。
このような条件を並べて、ゼンを人混みの中に置きます。
それさえ成してしまえば、タイ語も日本語も話せようと話せまいと自閉症のゼンの場合は関係ありませんし、障害のクセから行動自体がヘンなのでしっかりとトラブルを巻き起こせることになるワケなのです。
そうなると、あとは「受け手」である「狂言回し」側に「自閉症に関する知識(彼らや彼女たちの特殊な行動パターンへの理解)」が備わっていさえすれば、おのずと彼女の擁護者、理解者の立場となって行くわけですし、同時にトラブルに巻き込まれるきっかけも備わる、ということになるワケです。
ゼンには、ゼンの行動を観客に説明してくれる「相方」が必要です。
この役割りはこうして想定できました。
そして次はトラブルのタネ、つまりアクションへの「火種」ですね。
ここが最大の問題でしょう。
父の以前の仕事の絡みというパターンが、もっとも踏襲しやすいものですが、それではあまりにも「捻り」が足りません。
契機の想定。
これにはいくつものパターンが考えられるでしょう。
たとえばそのひとつとして、ゼンが何かの不正な事件を目撃してしまう。
でもゼンはそれを第三者に告げる能力には欠く。
それを知らない犯人側はゼンを拉致しようとし、ゼンがそれに抗うことから、アクションが始動する、とか。
そして心配しながら着いて来てしまい、そのゼンの逃亡を手助けすることで運命をともにしていくこととなるのが、先の「狂言回し」役の仕事です。
どうでしょう、なんとなく物語がはじまりそうな感じがしませんか(笑)。