ジージャー・ヤーニン応援ブログ

いいえ、女優ジージャー・ヤーニンを応援するブログですとも。

コマとコマのあいだで

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映画「スーパー!」のクライマックスは、フランクが奥さんのサラを奪還するための強行の様子を描きます。
この作品は、そのクライマックスに至るまでにも実に多くの社会的な問題を提起しているのですが、なによりもおおきな考えるべき課題のひとつに、「暴力の肯定」という問題があるでしょうね。
目には目を、歯には歯を、と構えて応じ生きていくのなら、どんな正義の鉄槌も、結局は連鎖する暴力のひとつに過ぎないものにしかなり得ないのだということ。
それはほんとうに正義といえるのか?
嘘ではないのか?
しかしこれは、アメリカが掲げ続けたその「戦争についての大義名分」そのままを考えさせ、揶揄する問いです。
暴力は、暴力。
正義ではない。
その歴然たる事実をどう解釈し、そのうえでなお、あなたはどうすのか、どう決意するのか、と、この映画はわたしたちに突きつけてきます。
レンチでひとを殴れば、ヒトは死ぬかもしれません。
それでも「何もしない正義」を、誰かの非難に負けて押し黙る卑怯さを、あなたは許容するのですか、と、言わんばかりに物語りは進行します。
フランクは奥さんを奪還しますが、結局、奥さんはフランクのもとを去り、他の男性と結婚してたくさんの子供をもうけます。
送られてきたその子供たちの写真を眺めて、フランクはおもうのです。
目にみえる結果への貢献。
この子たちがこの世に生れることが出来たのが自分のおかげなんだ、と。
そして何かを成すために、失くしてしまったことへの想い。
自分のなかにある悲しく敬虔なおもいを。
フランクのなかで、どうしても払拭できない、リビーが言ったコトバが脳裏を過る。
これでいいんだ、と、自分を納得させたくても、払拭できない思いが。
多くを失くしながら、それでもおもうことを成し遂げ、その栄誉も労りもない人生に帰還する。
これでいいのかもしれないけれど..という物語りです。
この映画、低予算で飛び道具も鳴り物もありません。
しかし、たいへん、おもしろかったです。
正直、ボルティーのことをいろいろ書きたいところなのですが、興味がわいた方々にはまずは観ていただきたい一本ということで、ネタばれ回避の思いで掘り下げませんでした。
リビーは、ジージャーが演じて良いのです。
わたしはいつも、ひとつの作品のなかにジージャーの投影をこころみ、その作品のなかにジージャーはいるだろうかという目で鑑賞してしまうクセがついています。
そういった意味で、この作品にはジージャーがいました。
「スーパー!」は、そろそろカルト的な人気が生じそうな時期にはいってきつつあると感じている一作です。
ご覧になられることをおすすめします。
ぜひ、感想をおきかせくださいね。