ジージャー・ヤーニン応援ブログ

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ボルティー

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映画「スーパー!」のおはなしのつづきです。
奥さんの奪還を目的に、神の啓示のもとに正義の味方となり、街の悪を駆逐していくフランクこと「クリムゾン・ボルト」。
そのクリムゾン・ボルトの活躍に胸踊らせ、みずからもその助手として正義の味方になりたいと志願するリビー。
フランクのやってることは、たしかに「正義のため」であることは事実なのですが、その過激な「やりかた」はどれも、正義の味方として憧れられるのにはムリがあることばかり。
でも、リビーはそれに憧れるのです。
日常のなかに降って湧いてきた「特別」に、こころ踊る彼女は、みずから「ボルティー」を名乗り、悪へと立ち向かうべく、悪を求め探し出そうと躍起です。
わたしがこのおはなしを根本的におもしろいとおもう理由は、ほかでもないのですが、このデフォルメされたフランクとリビーの存在の描きかたにあります。
世の中には、30~40になっても、あたりまえのソーシャルスキルを身につけず、ひととのコミュニケーションが満足にとれないまま、ふつうを演じよう、ふつうに振舞おうとして紛れたがるオトコたちが山ほどいるのですが、そういう人種の「本質」の狂態に触れてそのことをテーマに物語りを描こうとする動きは、いままではほとんどなかったように思うのです。
どうしてそうなるのか、というと、理由はカンタンです。
まだ、早かったからです。
大衆に共感がえられないこと、つまりは商業作品としてお金がとれないリアルなので、ただ放置されてきただけなのでしょう。
でもここから先の時代では、変わるでしょう。
なにしろ、フランクと同じ少年期としつけを受けてきたオトナが、この時代にはあふれはじめて来ているのですから。
で、そういう連中の狂態のほんとうを、物語り作家が歯に衣着せず描こうとすると、この作品のようにおかしみを帯びて、なかばギャグになりながら表現されることとなる。
つまりは、だれしもがもう、自分のこころのまんなかあたりに消化しきれない狂気をいつでも発露しうる状況が揃った時代がきている、ということです。
そういう意味では、この映画、タイムリーなのでしょうね。
で、わたしにしても実際、共感するのはここなのです。
劇中、この狂気の執行人クリムゾン・ボルトに憧れ、相棒を買って出たリビー(ボルティー)。
彼女は、そのポジションを手に入れたことでイッキに狂気の行動を発露させ、嬉々として「正義の許す」非常識全開で爆走していくのです。