ジージャー・ヤーニン応援ブログ

いいえ、女優ジージャー・ヤーニンを応援するブログですとも。

明日への模索

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ジージャー・ヤーニン応援ブログの区切りを、容易に想像できそうなトム・ヤム・クン2への祝辞と、ジージャーへの賛辞で飾って、それでいいのか、と、一月考えてきたのですが、それは違うなあ、というのがシアンの答えです。
大切なのは、ファンとして、応援のカタチとしてどれほど、ほんとうにジージャーのことを想えるか、それしかありません。
日本の片隅で、届きもしない声をあげることに意味があるのか、と笑う方も多いかもしれませんね。
しかし、想う、ということは、それほどに無力でしょうか。
たとえば、ソコに建てようと想わなかった高層ビルは、やっぱり永久に建たないことでしょう。
たとえば、たどり着こうと目指さなかった月面に、偶然、人類が降り立つことも、なかったのではないかと思うのです。
すべては、イマジネーションからはじまるといっても過言ではないですし、また、多くのひとたちがカンタンにその現実を認識できないということは、ある意味、あたりまえのことだとも思うのです。
だってもし、おおくのひとたちが突然このことに気付いてしまって、複層化する均一の力学的な想像の現実化現象が起きてしまったら、それはそれで、世界の破綻にもなるでしょうから。
わたしたち凡人の「想像の推進力」は、実のところたしかに微弱のものではあるのです。
でもそれは「ファン」というひとつの繋がりによって束となり、現実に根をはりはじめたとき、ひとりの天才の唱えるイマジネーションの何倍も堅固なものとして確立する可能性を含んでいるのです。
それが「ブーム」というものですね。
世界的な潮流を、コンテンツというカテゴリーに絞って眺めるなら、世の中はいま間違いなく「クールジャパン」を支持する仕組みに至っています。
この隙間(ニッチ)から、鋭角的な競り上がりでスピードをもってメジャーに打ち込む、という手法は、いま、アジアのあらゆる場所で模索されていることです。
そしてそれを虎視眈々と狙いながらも、その推進力に欠くことをもどかしく感じているひとびとの切望は、クールジャパン・コンテンツを、センス・オブ・ワンダーなアプローチで魅せてくれるたけの才能に溢れたアクターの欠乏、というところにあるのです。
おかしなはなしです。
驚くべき才能をもつ、チャーミングで意欲に満ちたひとりの女優が、こうした世の中の現実に反して飼い殺しにされそうになっているというのですから。
声は、あげていかなければ。
傍観者でいては、いけないのです。