ジージャー・ヤーニン応援ブログ

いいえ、女優ジージャー・ヤーニンを応援するブログですとも。

タイ映画

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過去の記事にもさんざん書かせていただいておりますが、タイの映画の「閉塞」の正体は、コンテンツの魅力の不足や、文化の伝え方の未熟から生まれているものだと思うのです。
タイの映画のための貢献という視点で考えても、このままの状況が良いとは思えないのですが、過去の邦画がそうであるように「持ち味」という甘美な逃げにあまんじて、成長しないのは愚かなことだと思うのです。
ハリウッドの模倣が正しいとはまったく思いません。
むしろハリウッド、実は嫌いです。
ただ、おもしろいものをおもしろくないとは言えないだけです。
できればいろんな国の、ほんとうの意味での「持ち味」を活かした作品がどんどん生まれてくれれば、と思ってはいます。
こころへんは、やっぱり制作側のココロザシの問題です。
むかし、ブルース・リーが、「燃えよカンフー」のスクリプトを制作側と詰めて、その主演を約束されながら裏切られ(デビィット・キャラダインというバレエダンサーに取って替わられてしまった)、ゴールデン・ハーベストに移ったという出来事がありました。
偏見、強圧、ご都合。
世の中の縮図とおなじです。
ひとつの映画作品の完成というのは、実にたくさんの人間たちの「思い」の結晶です。
プロデューサー、監督、俳優、スタッフ、さまざまなひとびとの持ち込んだ思いが、ひとつの結果へと結実して成り立つのが映画作品です。
だからこそ、その「持ち込んだ」思いに込められた「情熱」がヒトを魅了するのです。
これはまた逆に言えば、その「持ち込んだ」もののなかに歪んだものや熟慮の足りない未熟を込めてしまえば、それはそのままに作品をダメにする、ということでもあります。
チョコレート・ファイターからずっと、ジージャーの活躍を期待しているファンからしてみると、ジャッカレンを除けば、ジージャー出演作のいずれもが「物足りない」というのは事実だと思うのです。
彼女はもっと出来る、ヤレる、ということは誰にでもわかります。
では、なぜそれが結実しないのか。
これも明白なことで、優れた骨子の、ヒトのこころに訴えるチカラを込めた作品に出会えないからです。
そしてその出会いへの制限は、公平な目でみてやはり、サハモンコンに問題があるからだと言えるでしょう。
ではサハモンコンの何が問題なのかといえば、先にあげたとおりその「閉塞」という事態にほかならないのです。
コンテンツの採択があまりにもつまらない。
よいテーマを持ち得てあつかえても消化が出来ていない。
変わろうとする気概がない。
トニーの件で露呈したとおり、海外のオファーを断ったりというのも、むかしのゴールデン・ハーベストのような淀んだ空気を感じます。
不思議なものです。
映画界は、過去のよくない歴史をいつも繰り返し続けています。
ピンゲーオ監督の才能や、いろんなスタッフや俳優たちの気付く優れた観点も、結局は未熟なままでよく練られることもなく終わって、魅力を帯びるにいたりません。
この典型は「パーフェクト・スナイパー」という作品によくあらわれています。
優れたテーマ、俳優、監督。
それでなお、これほどに未消化というのは、ほんとうはまったくの大問題のはずなのです。
チョコレート・ファイターの良いところはいろいろありますが、やはり「よく練られた」作品だったということが大きかったとおもいます。
ただ、その長所だけに依存して、その模倣を繰り返してもしかたありません。
変わろうとしないところには、あたらしい息吹は宿らないのです。
それはかえりみて、みなさんに対しても言えること。
ファンって、なんですか?