ジージャー・ヤーニン応援ブログ

いいえ、女優ジージャー・ヤーニンを応援するブログですとも。

ひかり

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「あたりまえじゃないか」と、大雑把にモノゴトを括るひとたちがいます。
「まさか」と、ヒトのココロの躓きを理解出来ないひとたちがいます。
世の中に「当たり前」なんてモノがあるのなら、どれだけラクちんで幸せなことでしょうか。
はい、こちらですよー、と、サインを掲げてくれる正義が、世の中のいったいドコにあるというのでしょうね。
一条の光明の指す先に、迷いなく歩いて行ける人生。
それを信じることの出来る育ち方。
そんなものが、どれほど遠い存在であることかと、想像するほどに気が遠くなるのです。
そういう歪みを理解出来ないヒトたち。
裾を払うように、不幸と決別して行くひとたち。
いや、おおくはみなそうだ。
痛みを視野に入れないように、そっとヒトの苦しみから目をそらして小綺麗にふるまうひとたち。
光は、そういうヒトたちのためにあるのでしょうか。
そうなのかもしれませんね。
たとえば太陽は、日射しは、そうですよね。
誰にも公平に、日差しは与えられるものでしょうし。
でも光は、ただ、ただ輝くということは、それと同じなのでしょうか。
違うとおもうのです。
違うような気がしているのです。
世の中でスポットライトに照らされることを「あたりまえ」として、自分を中心にものごとを考えるひとたち。
疑いもしないで、生きていくことの序列を強いるひとたち。
それって、わかりやすく、明るい存在ですね。
でも知ってますか?
どんなにきらびやかな輝きでさえ、その実は「反射」を表現しているだけなのだということを。
輝こうとすること。
自らが光となろうとすること。
或いは遠い明かりを信じようとするこころは、そうではないとおもうのです。
ある教育者が、障害児をさして「この子たちをよのひかりに」と言いました。
一隅を照らすものこそ、世のひかりです。
それはけっして「当然じゃないか」という心には宿らないものです。
輝いているようなものと、輝くものは似て異なる。
たとえば神様ならば、どちらを求めるのだろう。
宣伝のうまいものだろうか。
わかりやすいものが選ばれるのだろうか。
わたしは、それは違うと、光はすべて、輝こうとするもののためにだけあるのだと、それこそに「真実」が宿るのだと、どこかでまだ、信じているのですが..