ジージャー・ヤーニン応援ブログ

いいえ、女優ジージャー・ヤーニンを応援するブログですとも。

「映画」について思うこと 1

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名古屋のシネマスコーレのブログを見ているうちに、ふと、映画そのものについて考えてしまいました。
なにより、シネマスコーレにはがんばってほしいです。
個人的にそういうの好きですから。
ただ、ちょっと思うところがあるのですね。
映画って、これからどうなるのかなあ、ということについてです。
そのことを、マイナーからながめて感じたことがあります。
大会社が配給を仕切って、大々的にわたしたちの目にそのプロモーションが見えてくるような作品は、淘汰の末に残された傑作ばかりなのか、といえば、その限りでもありません。
どんなに宣伝されても駄作は駄作です。
逆に、話題にのらない作品にも、キラリと輝くものを持つ傑作はあります。
極論ですが、そうした作品たちとプライベートとの違いは、お金のかかり方ぐらいのものでしょう、と、いうのが、いままでのわたしの見解でした。
でも最近、違うなあ、と感じ始めているトコロなのですね。
いまから「おもしろい映画」を撮るというコトは、キラリと輝くくらいでは済まされない、工夫と知恵を振り絞ってのたゆまぬ創意による行為でなければならなくなることでしょうし、そうでなければ、まずは生き残ること自体がムリでしょう。
20年くらい前の感覚のヒトたちで映画通を気取るスジには、たとえばエド・ウッドあたりをおもしろがって酒の肴にするような風潮が喜ばれたりしていました。
いまでもそういう人種には、ゴミみたいなゾンビ映画がウケるだろう、という空気が業界には生き残っていて、その手の作品がいまだに後を絶ちません。
まあ、それもいいでしょう。
でもこれ、もうムリですね。未来がありません。
おもしろくない映画の核は、いつも「向いている方向の間違い」というトコロにあるのだと思うのです。
たとえば「チョコレート・ファイター」と「チョコレート・ソルジャー」の違いって、具体的にどこにあると思いますか?
わたしにしてみればファンですから、「チョコレート・ソルジャー」にせよ、ジージャーがこれから描いていく作品群の10作のなかの1作として、間違いなく価値のある映画だと思っているところではあるのです。
現実にブルース・リージャッキー・チェンの作品たちが、傑作のその前後の作品たちに補完されて価値を高めて来たように、作品の群れとしての価値というのは、その単体の映画だけで語られて終わるものではないと思うからです。
それでは「チョコレート・ソルジャー」が、「チョコレート・ファイター」と同等の評価を得られうる作品かと問われれば、わたしは無下もなく否定してしまうのです。
みなさんはこの点、同意いただけるトコでしょうか?
まあわかりませんが、仮にそうだったとして、では、その違いの差とは、いったいどこにあるのでしょうか?
ジージャー自身のアクションの問題でいえば、むしろ「チョコレート・ファイター」の時期よりレベルの高いものを見せてくれてさえいる「チョコレート・ソルジャー」です。
では、一体何が違って、この映画はわたしを納得させないのでしょうか。