ジージャー・ヤーニン応援ブログ

いいえ、女優ジージャー・ヤーニンを応援するブログですとも。

映画のなかのヒロイン 1

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映画の中のキャラクターに思い入れを抱くというのは、その映画を評価するおおきな要素になりうることです。
ということは同時に、自分の人生のなかにそのキャラクターが提示する「価値観」を自分が受け入れるという意味でもあり、とても大事な出逢いということでもあるワケですね。
以前にもいいましたが、映画が描く世界観に対する共感や感動というのは、その世界観をかいま見る自分の人生における重大な疑似体験なのです。
昨今の、脳の機能についての解明された現実を前提にするなら、何かを観て「感じる」ことで得る「情報」というのは現実に体験することと同じ情報収集の意義があるのですね。
わたしはよく、むかしからスプラッタームービーを「おもしろい」というヒトたちに疑問を持っていました。
人間が切り刻まれて血まみれになる世界がおもしろいって、それってなんなんだろうなと思っていたのですが、彼らや彼女たちの感想の原理は至ってシンプルなのです。
いわく、怖いから刺激的でおもしろいのだし、映画は作り物なのだから楽しめばいいんだし、というものなのです。
でも、ここ数十年で脳についての機能やあり方がずいぶん解明されてきましたが、その主軸となる重大な問題は、あらゆる情報はすべて境界線がなく扱われるものなのだという事実です。
つまりは、映画がつくりだした血まみれの殺人の様やクリーチャーや地獄絵図も、311の現実の映像にも境界線はなく、その実は「同じ」情報として脳は受け入れている、ということなのです。
このこと、もう一度、よく認識すべき問題だとおもいます。
なぜならこれは、ある意味において「自分の正体」を知ってしまうおおきな手がかりにもなってしまうからなのです。
マッチョな物語りにほれ込んでしまう男性は、潜在的に同性愛の傾向があるとか。
アクション映画が好きなヒトはストレスが過多だとか。
騙されるひとの物語りを楽しんでしまう女性は、残酷だとか。
血まみれの殺人に期待してドキドキすることが楽しいヒトって、アタマがおかしいとか。
いえ、問題はそれほど単純ではありません。
でも遠くなく、そういうこころの脆弱さが外から与えられる情報に反応してしまっているというのは事実でしょう。
頑なな主張をもつひとほど、こういう傾向は強いようです。
だからこそ、映画という、誰かが創造していく「世界」は深くもあるのですね。
まあ、中にはあえておちゃらけた作品も多々あったりするのですが(笑)。
そんななか、近年の映画でおおいに「思い入れ」を抱いている、あるヒロインについてとりあげてみたいとおもうのです。
上の論理に沿って考えれば、わたしの場合、自分が映画「チョコレート・ファイター」の主人公ゼンに、ひいては女優ジージャー・ヤーニンに強く惹かれこととなるのは、まあ至極当然のことだったのかもしれません。
同様に、ここ数年の間の映画作品で、そのキャラクターにつよく惹かれるヒロインがひとり、存在しています。
リスベット・サランデル。
映画「ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女」の主人公です。