ジージャー・ヤーニン応援ブログ

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つきないモチーフ 3

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世界の警察を自負するアメリカが「力」を正義とすればするほどに、歪んでしまうものがある。
残念だがその正義には、慈しみが見当たらない。
ひとは、花を踏まずに進んでいかなければ、永久に尊ばれることはないだろう。
和をもって繋がり、互いを尊しとしないのならば、ひとには生きている価値がない。
正義は、力に通じるのではない。
正義は、天にこそ通じるのである。
太陽が誰にもひとしくその陽差しをあたえるように、正義は、国の利益や権利のために行使されるべきものではないのだ。
しかし大なるものは小なるものに影を投げかけるもの。
小なるものは大なるものの映しである。
「力」を正義とする国の飯を食み、そこに根を置き日々を生きていくのならば、自分自身こそはその国の一部であり、すべてである。
その正義が「真実」であるのならば、誰もが豊かにそのこころを保ち、正当を捏造しながらの他国への侵略などは起こらないはずであり、それを許す国民も育まれることはないだろう。
20XX年、多くはその真逆の事実を生み出していた。
人々のこころは歪み、鈍くなってしまった。
歪んでしまったものを癒し、正していくものはいつも、ただひと握りほどの真実と、ほんの少しの勇気から成る行為だ。
救世主を待つものはすべて、やがて自らが救世主自身となる覚悟を培う必然にいたるのだろう。
ひとりの少年がいた。
彼には、力が正義だとは思えなかった。
しかしそれは誰もが認めていることであって、皆と同じに考えられないことをよくないことだと責める自分を自分のなかに抱え、苦しんでいた。
生きていく中で、ひとはいくつも試される時を迎えることとなる。
その少年にも、その瞬間が訪れようとしている。
あとはほんの少しの気づきと勇気を失くさないことだけが、自分自身のこころを救うパスポートとなるのだが..

アメリカの片田舎、東洋が遠いその街から見れば、日本のマンガやアニメーション作品が描くすべての世界観は「マンガ」であってほんとうのことではなかった。
しかし、その少年には大きくそうした作品のヒーローたちに惹かれるところがあった。
マッチョな体格に依存しない、シャープでスピィーディーでカッコいい英雄たちは、アメリカが考えつかないスピリチュアルな影響を彼にあたえていた。
彼はブルース・リーや多くのカンフースターを尊敬していた。
友達に「あれはトリックだ」といわれようとも、東洋のさまざまな格闘術に敬意の念を抱き続けていた。
幼いころ、ローカルで見ていたタツノコアニメの「ジュードーボーイ」の、赤い道衣をカッコよく纏う姿は目にやきついていた。
東洋が発信してきたアメリカのそれとは違う「強さ」は、幼い彼のこころを虜にしていた。
彼はいま、トラブルに巻き込まれていた。
彼の6つ年上の姉が、街の不良たちに絡まれ狙われていたが、彼にはどうしようも出来ないことだった。
従うべきことが「力」であるなら、それは正義だった。
憤懣としながらもすべのない自分に苛立ちを感じていたそんなとき、彼の目の前で信じられないことが巻き起こった。
小柄なひとりの東洋人が、あっというまに荒くれた大勢の不良たちをなぎ倒した。
これはアニメではなかった。
しかし彼の脳裏をよぎったファーストインプレッションは、その東洋人のイメージをある強烈な印象を彼に植えつけたひとりの英雄に結びつけたのだ。
赤いバイクに、黒と白の上下の出で立ちをしたその東洋人は、間違いなく、彼の「紅三四郎」だったのである。