ジージャー・ヤーニン応援ブログ

いいえ、女優ジージャー・ヤーニンを応援するブログですとも。

つきないモチーフ 2

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高校生のころ、新井一先生のお書きになられた「シナリオの基礎技術」という本に出会いました。
この本はいまでも、映画のスクリプト制作やシナリオ作家を目指すひとたちの教科書のような存在だとおもいます。
その本のなかに、こんな一説が出てきます。
映画とはひとかりまりの「栗ようかん」みたいなもんで、どこに包丁を入れて分けるかで受け取られ方の変わってしまうものだ、と。
包丁を入れた断面に栗をみせると、観ているひとたちは栗の味をイメージして羊羹の味覚そのものに期待を抱きますが、栗が見えなければその平凡さに退屈してしまうのです、と。
そして、物語を補足する退屈な設定の説明は、ライターが書きたくないのと同様、観客も退屈してしまうものです、ともおっしゃいます。
優れたスタッフや俳優を集め、時節に乗って機会を得て、魅力的な原作を背景に新進気鋭の描写でもって一本の映画を製作できたとしても、こうしたあたりまえのことが理解されていないと、出来上がってくる作品は残念ですが凡庸で退屈なものとなってしまうことでしょう。
それは仮にジージャー・ヤーニンのような稀なほどに優れた女優を起用し、想像を絶したアクションの描写を加えてもなお否めないものです。
そしてそういう「空気」は、映画作品全体をラッピングするプロモーションにも伝染してしまうのです。
たとえば陳腐なスプリクトが前に出てしまって、観る側が何が何やらよくわからないという仕組みをつくってしまうような、残念な流れまで生み出してしまうのです。
身近なところでは、上述のすべてが「レイジング・フェニックス(チョコレート・ソルジャー)」をとりまく全般に当てはまります。
説明的にすぎる導入部からはじまり、なじみも薄く必然もよくわからない提案の拳法の説明的な披瀝と、過激なアクションとはあきらかにバランスのとれていない物語の展開など、どれをとっても自作のコマーシャルをすら越えないのが事実です。
ただ、わたしがいたずらに「レイジング・フェニックス」の批判をしたくないのは、渾身の取り組みをした結晶のようなそのフィルモグラフィーが悪く言われれば、その責任者である監督以上にそのことを悲しんでしまうであろう人物が何人か思い浮かんでしまうからです。
そうした真摯な意識をもつひとたちは、内心はすでにその軌跡の意義を知っていて、すでにその場所にはいませんから心配はないのですが。
ともあれ、映画にかぎりませんが、ひとつの作品をその時節に則ってベストなものとするためには、さまざまな要素への抜け目のない掛け合わせを配慮しなければならないのだということです。
そのようにして生まれた優れた作品は、時が経過しても古びることがありません。
原作選定。
キャスティング選定。
シナリオ製作。
撮影製作。
編集完成。
プロモーション展開。
配給と回収(BD/DVD展開までを含む)展開。
ここまでが、いわゆる「ひとつの作品」の1次評価の対象でしょう。
そうした観点からも、いま、ジージャー作品に必要なのは、すぐれた「原作」の選定からはじまるものだと思うのです。
タイ発信のオリジナル作品が、世界中への訴求に向けて「チョコレート・ファイター」のようにすぐれたものであれば、それはそれで素晴らしいことです。
実際、今後「チョコレート・ファイター」は、ゲームに、小説に、リメイク対象として等、独立したすぐれたひとつのコンテンツとして活かされていくべき作品でしょう。
しかしそうした核となる選定の部分、つまり原作の要素という点では、わが国日本はすぐれたコンテンツが世界一豊富な国でもあります。
そしてわが国が発信したそうした過去のコンテンツは、すでに評価の高いインターナショナルなものであるというのも事実です。
とりあげてみた「紅三四郎」にかぎりませんが、そうした世界的に通用する過去のコンテンツを利用しつつ、優れた女優の資質を全面に発揮する糧として活かせる作品を選んでいくのなら、これはとても好ましい流れなのではないかと思うのです。
わたしがこうしたマイナーなブログでジージャーにプレゼント出来ることは、いくつかの気づきに向けてのエッセンスということしかありません。
ジージャーの資質が、ベストに引き出されることをいろいろと想像してしまいます。
まあ、たわごとでしょうか。
それすらもなかなか届かないだろうなあというのが現実なのですが(笑)。