ジージャー・ヤーニン応援ブログ

いいえ、女優ジージャー・ヤーニンを応援するブログですとも。

フィルムの中のジージャー 3

イメージ 1

映画「チョコレート・ファイター」の物語の「完成形」を模索し、なぞって行きます。
欠落した部分を組み合わせて見えてくるのは、ジンを軸とした「運命」の流転の描写と、そのジンがゼンを深く慈しむことで、強い母性を培って行くという変貌の演出です。
ジンの視点が、この映画の序盤のすべてです。
ここからやっと、ジージャーが登場します。
成長したゼンへと役者交代です。
そしてゼンが成長するにつれて今度は、外から訪れる脅威とは違う種類の不安が、ジンとゼンの日常の生活の中に忍び込んで来ます。
ゼンの「自閉症」の症状が顕著になりはじめて来るのです。
偏食、パニック、コミュニケーションの難しさがハッキリと現れだし、ジンの胸は痛みます。
カップ麺を食べるシーンでは、幼少期のトラウマとしてゼンがハエを怖がるという場面を描き、のちの肉屋襲撃の問題点への伏線が貼られることになるのですが、ここは全面的にカットされています。
パニックに陥るゼンを、ジンは受け入れ、抱きしめるのですが、このシーンはまた、白血病の治療のせいで「お出掛け」の予定が狂い、パニックに陥るシーンへの伏線です。
このように、ゼンの生活の現実面はかなり深堀りされているのですが、これが描かれることは同時に、ゼンの絶望的な「自閉症」の症状を描くことでもあるわけです。
白血病の問題以上に、自閉症という障害には処方がありません。
ただただ、ひとの愛のある忍耐と慈しみと諦めないこころだけが、この障害の救いなのです。
ジンは変わって行きます。
「不実なオンナ」から、「慈しむ母」へ、と。
未公開部分を加えて全体をみて思うことは、ゼンの「自閉症」の症状に関する描写は、救いのない絶望感を観客に強く与え過ぎるだろうということです。
しかし、これはとても優れて現実的なジージャーの演技のたまものでもあります。
そしてその描写が明瞭であるほど、ジンの母性の深みが観客に伝わりもするということなのです。
この部分の演出を映画全体から敢えて削った監督の思いは、おそらくは、この映画の後々の評価を悲劇的なものとしてではなく、明るくイノセンスな部分をみてもらうためのものとして差し替えたかったからなのではないかと察します。
実際、それは正解だったと言えるでしょう。
なにしろいろいろ削ってもまだ、阿鼻叫喚の地獄絵図だとか言うヒトがいるくらいです。
治らない病のお話にもいろいろありますが、自閉症はあまりにも救いがありません。
これは特別な問題に過ぎます。
障害者や障害の現実は、お給料が安いだの人間関係が辛いだののレベルで悩むくらいの、平和で満たされた世の中で生きているひとたちには重すぎるのです。
自閉症は生涯治りませんし、結局は親が死んだらおしまいの障害です。
極論ですが事実ですね。
そういう事実から考えると、これはどうにも辛く、エンターティメントを求める映画の題材には向きません。
誰かの気まぐれでスポット的な同情の思いくらいには叶うとしても、あんまりリアルだと考え込ませてしまうばかりで未消化になってしまうからですね。
そこに加えてまた、ジージャーの自閉症の演技が上手すぎるのです。
新人のジージャーの演技を、「自閉症」という障害をあまりにも知らなすぎる日本人の評論家は、アクションは評価するがイマイチの演技と評しました。
とんでもないと思いました。
世界配給版の演出をみても、ジージャーの自閉症の演技は類を見ないくらいに優れていますが、更にこれに未公開部分が加わると、もう完璧なくらいに「自閉症者」を描けているのです。
その意味でも、いつか「チョコレート・ファイター」の完全版は日の目をみるべきでしょう。
なぜならここには、みなさんがまだ知らない「過ぎた日のジージャー」の優れた多くの演技と積み重ねられた努力の成果の姿がまだまだ隠されているからです。