ジージャー・ヤーニン応援ブログ

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珈琲時光 4

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ホウ・シャオシェン監督は、この映画を都内に入り組む電車の軌跡をもとに描きます。
ある側面で、これは地下鉄の映画なのでしょう。
事実、海外でのCafe Lumiere(珈琲時光)のガイドは、同時に「トーキョー・メトロ・ルミエール」として紹介されています。
小津安二郎作品へのオマージュという大前提は事実ではあるのですが、それに執着してこの映画を見てしまうと、何か勘違いをしてしまう部分が出てくるかもしれません。
ホウ監督の中の「小津安二郎」らしさという模索は、この作品では「日常」という風景への理解ということへたどり着いています。
彼はそれを生活の中のさまざまな「味わい」と表現しています。
フランスでは、バカンスの季節になるごとに日本の「小津安二郎作品」がよく取り上げられ、クロサワよりも親しまれ愛されているのだそうです。
ホウ監督によれば、若いころは観ながら寝てしまうほど退屈だったその小津安二郎作品に、自分が年齢を重ねることで「深く伝わる」ものを感じて来たのだとのこと。
でも、こうした「日常」をただ模倣して描くだけでは、それはただの真似にすぎません。
「日常」というテーマを軸に、ホウ監督の模索は続きます。
そして選択したテーマのひとつがは「日常の足」である電車でした。
あとはキャラクターを掘り下げていくだけ。
これに契機を与えたのは、ほかでもない一青窈さんそのものの存在でした。
映画「珈琲時光」は、彼女の存在によって方向性が決定づけられて行く事となります。
彼女を知り、彼女のコンサートをみたホウ監督は、陽子の「日常」という観点から物語を紡ぎ始めていくのです。
ホウ監督のなかの「日本映画」の記憶は、日本が中国に近づき、台湾での上映が禁止になるまでのものでした。
台湾の方言のひとつビンナン語にはいまも多くの日本語がまじっています。
もともと台湾人にとっては、日本は遠いものではなかったはずなのです。
それでも、時代の中の「日常」は、時代の関数です。
「日本を知る」ということへのガイドとしても、彼女を通してみるこの模索は有効だったのだと思います。
この映画を製作してのち、ホウ監督は、自分の「日本を見る目」が変化したとも語っています。
それはこの映画のように、けっして「新しい」とか「昔の」というような短絡的な感想のお話しではありませんが。