ジージャー・ヤーニン応援ブログ

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生みの親

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モンキー・パンチ先生の訃報から、世の中がどんなふうにそれを捉えるのかを見終えて、思うところです。
ただ、この、いまのわたしの思いはたぶん、なかなかみなさんには伝わりにくいものなのかもしれないなあ、とは感じてはいます。
わたしは、先生の、ルパンという作品、つまりは自身の生涯のおおきな記号となった分身への「向き合い」は、相当に辛く、それでいておおいに前向きさを促す、きわめて複雑なものだったのではないかなあと察するのです。
この思い、もちろん、ただの思い込みであって、ぜんぜん検討違いなものだと括ることはいくらも出来るものだとは知っています。
と、同時に、こんな取り方を書き述べる輩もいないだろうな、ということも知ってはいるのです。
ヒトの真意なんて、その本人にも語りきれるものではないでしょう。
でもその反面で、ほんの瞬間の過ぎる思いのなかにソレは宿っていたりもするものです。
ほんとうの、こと。
それは、誰かへの説明のために整然とまとめられるべきものでもないことだから、饒舌な客観性への補いのために用意す必然のないものなのだから、です。
ひとは、こころが深くなるほどに、悲しみを上手に隠したりするものでしょう。
だからその深さより深くない心象に、その悲しみの影が捉えられることはなく、そこにヒトのこころの携えた悲哀が騙し絵のように晒されたりしているのに、あけ広がってもなお、みながソレに気づかないという事象が起きたりするのでしょうね。
わたしは、先生の生き方には、こうした悲哀の影を深く感じずにいられません。
ただ、これは先生の身近にあって、その人柄をよく知り、緻密綿密なインタビューをなし、こう言った、こうふるまった、事実がこうだった、というものに基づくおはなしではありませんから、別段、この意見に正しさなんてありませんし、いくらでも否定も無視もできるものではあります。
それでも、こんなふうに、ひとりの開拓者の人生を深く悲しく感じる人間がいたとしても、それはそれでよいのではないか、と、いまは思うのです。
ご冥福を祈りつつ、いつか、また、と、こころを傾ける思いです。
先生、お疲れ様です、ありがとうございました。