ジージャー・ヤーニン応援ブログ

いいえ、女優ジージャー・ヤーニンを応援するブログですとも。

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わたしのハナシで恐縮ですが、あわただしく、いろんな事件が続いて、ものごとへの考え方がすこしづつ変わってきた1ヶ月を経験しています。
事件は、仕事にも生活にも、なによりみずからの価値観、そして身の回り、自分の関わること、携わることのあらゆることに及んでいる空気なのですが。
変わる、ということが、過去を否定して変節する、ということに決着するということに至るのか、それとも、あたらしい価値にたどり着くことなのか、いまはわかりません。
ただ、もう、静かに、でもとても激しく揺さぶられている実感の中、次から次へと事件が連発しているこの状況に、変わりなさい、気づきなさい、とだれかからいわれている気がしてなりません。
いまからわたしは、なにを見せられ、どう感じ、どう反応することになるのか、実はそこそこ想像がつきます。
何故、未経験のことにそんな確信が、というところではあるのですが、ほかでもありません、そんなふうに、根こそぎ、生きるなか、大事におもい守ってきたものをゼロにされてはじめさせられたり、どうにもならないことを、お前の仕事だ、どうにかしろ、と駆り立てられて奔走させられるのが、いままでのそもそもの自分の人生の「当たり前」だったからなのですね。
こんなこと、いくつになっても、慣れないのですけど。
たぶん、箇条書きでいままでの人生で被っわたしの事件の数々、羅列したところで、あまりにハデで、だれにも理解されないのは、いまさらながらもう、みずからよく知っていることなので、ここで反芻はしませんけど、ここらへんはもう、目の前でそれを見ている身内でさえ理解できないものなのでしょうがないところなのですね。
でも、良い(?)ことも、そういう変わったわたしの事件のなかにはいろいろあったりして、ただ、そういうのに限ってヒトに言ってはいけないハナシだったりして困るのですが、まあ、とにかくあんまり常識的でもなく、都合よくもないということです。
一例、以前にこんなことがありました。
大須で、持ち合わせるのにしくじって駐車料金に困った瞬間のこと、鳥が5千円札を加えて落としていってくれたのですが、そのときは、まだ幼かったウチのムスメがその様子を目撃してしまいます。
ムスメはあとでそれを母親に興奮して話すのですが、そのせいでムスメは想像力豊かな嘘つき癖のある子供、と、決め付けられてしまいました。
ヒトはだれも、「自分の性格」に勝てない常識のなかでいきている、曖昧で未熟な神です。
わたしは1年に数度、他人の財布を拾うのですが、これで感謝されたことも、得したことも一度もありません。
ならなんで、わたしは財布を拾わされ続けるのでしょうね。
わかりませんが。
で、そういう、私の「ものの見方」、ここから先の、ジージャーに向けての見識にも影響することと思います。
願わくば、それがプラスになるものであることを祈るばかりです。