ジージャー・ヤーニン応援ブログ

いいえ、女優ジージャー・ヤーニンを応援するブログですとも。

コンテンツの系譜 2

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アクション映画の醍醐味は、カタルシスをどのように描くかにすべて掛かっているのだと思います。カタルシスとは、こころをどんなふうに開放させていくか、という手順とその成果についてです。
アクション映画の主人公の立ち位置や心情は、それが謎解きのかたちをとるときであれ、結局は観客の心情に繋がるものでなければ意味をなしません。
実は最近の映画は、たとえばデヴィットフィンチャー監督作品などに顕著なのですが、かならずしも正義、正常、懲悪を肯定していないものが多いです。
その根底にあるもの、本来的な人間の心情に沿わないものが受け入れられている現実は、そのまま、現代の歪みを映している結果だといえます。
物語りというものは、あらゆる人間の人生の見出しを担うものです。
まだ見ぬ世界への畏怖と憧れを描く、生きることの糧たる存在にほかなりません。
そこには、愛があり、希望があるべきなのです。
ひとは、慈しみと感動を知るために生きていくのです。
そしてひとが生きることの意義とはただひとつ、世界との共感を得る、これのみにつきます。
これをあえて歪めて吹聴することは、おおく、ひとを容易に惹きつけることでしょう。
人の世界が歪めば歪むほどに、恐怖の支配や悪意は魅力を帯びるのです。
なぜか?
それは、ひとというものが本能的に、暗澹たる未分の闇に「多数」を感じるからです。
でもほんとうのところ、闇は、単一の存在です。
そこに、仲間などいないのに、仲間がいそうだと感じてしまうのは、実はもうそのひとのこころが精神疾患のはじまりに抵触していることのあかしです。
たとえば、殺人の経験をしなければ、殺すこと殺されることの心情がわからないと行き詰まることには、どのような意味があるのでしょうか。
あらゆることを、ひとはひとりの人生のなかですべて経験することは物理的に不可能であるのに、ある特定のことだけが特別に個人のなかで「わからねばならない」になり、人間のこころを窮屈にさせて必然のない行為をみずからのなかで肯定させてしまう。
これを、異常といいます。
こんなものは、個性でも才能でもなんでもないのです。
ホラー映画をおもしろい、というひとたちに「なぜ」を突きつけると、いろいろ言うのですが、その最後に剥がれてあらわれる回答は皆同じで、つまりは「恐怖を描くむこうにカメラがあるから」という幼稚な心理の裏付けを吐露してくるのです。
驚くべき愚かさです。
しかし、残念なことに、文明社会の多くの場所でこの蝕みはひろがってしまっていて、誰か、何か、慈しみと希望を纏ったおおきなメッセージがうまれないかぎり、その浸食を止めることも難しいことでしょう。
映画は、まずはエンターテインメントでなければならない、と、わたしは定義します。
エンーテインメントとは、かんたんに言えば娯楽ということです。
娯楽でなければ、こんなに歪んだひとたちをもう一度ふりむかせることも出来ないからです。
しかし、娯楽とは本来「こころを慰める」という意味です。
ただ貪るように楽しみ、逃避的、刹那的な快楽を肯定することは娯楽ではなく、享楽といいます。
慰められ、蘇ることによって喜びを得るこころの仕事をうながすもの、この意味において、映画は娯楽でなくてはいけない、と考えるのです。
敢えて「異常」や「歪み」を描くことで、異常が産み出されることの意義を問い、精神の水平や均衡を示唆しようとする多くの映画があります。
枚挙、暇無しながら、一例、みなさん「ジョニーは戦場へ行った」という映画をご存知でしょうか?
ご存知であればぜひ、この作品と「ゴーン・ガール」との違いについて考えていただきたいのです。
ご存知なければ、この機会に一度、知っておくことをおすすめします。
原作となる小説「ジョニーは銃をとった」も、監督であるドルトン・トランボローマの休日の作者)による作品であり、どちらも参考になるとおもいます。
この作品は反戦への祈りを、時代の背景から反戦と謳えずに描く物語りなのですが、その内容の過激さから、アメリカにより度重ねての絶版を強いられてきたものでもあります。
それほどアメリカはこの作品のことを気にしていたということでしょう。
そしてこれを映画化するにあたっては、作者自身が生涯唯一の監督作品として手掛けているという熱がそこにあります。
トランボ自身の生涯のことは、最近、映画にもなっています。
しかしそれでも、「ジョニーは戦場へ行った」がそこで深く語られることはないことでしょう。
読み手にも、観客にも、「行間を読み取る」感性の目というものは強いられるべきものなのでしょうね。
わが国には、「ゴジラ」という有名な「怪獣映画」があります。
この映画もそもそもは、原水爆実験への警鐘をテーマとして、アメリカの名を語らないままにアメリカへの非難と反戦、日本人の覚悟を語った作品でした。
ここから「怪獣映画」の名にあまんじた62年の歳月を費やしながら、ようやく、このコンテンツは原点への回帰への兆しを孕みます。
シン・ゴジラ」は、この系譜の先に置かれた、最新の一作です。
この作品のなかで、日本はアメリカから、3度目の核を浴びせられることとなるのですが、それを「自分たちの力」で切り抜け、たおれてもたおれてもなお、生きていくこと、信じ続けること、あきらめないことの大切さを描きます。
これをネットメディアの評論家たちがハナで笑うのですね。
甘い幻想、ご都合的な虚構の世界を、何をいまさら描いているのか、と。
おおく申しません。
揶揄されようとキレイゴトを重ねて続け伝えようとする勇気こそ、いまのわたしたちには必要だと、わたしは信じています。
3年B組金八先生」という、ほとんど非現実的な先生像、信頼の繋がりの形に単純に触発されて、ひとを思いやる人間が生れていくことを、わたしは「くだらない」などとハナで笑ったりはしません。
なぜなら、「見本を続ける」ことこそ、ひとが生きていくことのなかの役割でありひとがひととして生きていく「仕事」の正体だと知っているからです。
今日、それがどれほど困難なことなのかを、よく知っています。
障害を持つ家族がいるからです。身をもって、おおくの経験と感想をもって生きてきたからです。
それでもなお、この痛みとともに生きていきます。
ほかでもなく、わたしもまた「物語り」に影響されてしまったひとりだからです。
たゆまず、嘘の見本の繰り返しのなかに希望を描き続けること。
これが生きていくということなのでしょう。
かえりみて、実は「映画」というものの役割も同じであり、物語りとはこれほどに重い「娯楽」であるのだと、わたしは思うのです。
もちろん、癒しというものが、重さを背負わせることではないことを承知しながらのおはなしですよ。
ともあれ、映画は、人に多大な影響を与えてしまうもの。
俳優のエディ・グリフィンやLL・クール・Jは、自分たちの人生に、ブルース・リーから計り知れない影響を受けたと語ります。
ヒップホップのグループ、ウータン・クランのRZAは、彼をモーセムハンマドやキリストと同じ「預言者のひとり」であり、みずから「あたらしい価値観」を示した人間だと言います。
マイノリティであったハリウッドにおける東洋人の地位を変えてしまった彼の存在による影響は、東洋人のみならず黒人にもおおきな影響を及ぼしていました。
ブルース・リー
彼以前と彼以後、映画が、アクション映画がどのように変わっていったのかは、もうみなさんがご存知のとおりです。
そしてわたしが信じ、期待するあのタイのアクション女優は、この道のりの最先端の位置に立たされた存在です。
唯一の、ひとなのです。
物語りは、ひとや世の中の未来までになうことが往々あります。
ましてや、アクション映画には、その素養は最多に含まれているのだという事実を、ブルース・リーがすでに実証してくれました。
暗澹たる現実に、一閃の光を放つ役割を担うものには、それにふさわしい伝説が必要となるはず。
そんな「物語り」が用意されないはずがない。
そしてアクション映画の醍醐味は、カタルシスをどのように描くかにすべて掛かっています。
カタルシスとは、こころをどんなふうに開放させていくか、という手順とその成果についてです。
そしてその成果は、こんなふうに世界まで変えてしまうものと成り得るのです。
すべては、必然のこと。
近い将来においてタイの女優ジージャー・ヤーニンが携わるのが、こうしたコンテンツの系譜の先を担う作品でないのだとするのなら、それは、神様による「運命の綴り間違い」以外の何だと言うのでしょうか。
ブルース・リーに喚起されたひとびとと同じように、もう、こんなものでいいかな、とか、このくらいでいい、という妥協は、彼女にはまったくふさわしくないもののように見えるのですが。