ジージャー・ヤーニン応援ブログ

いいえ、女優ジージャー・ヤーニンを応援するブログですとも。

先をいそぐのではなく

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このブログを書くことの意義は、たぶん、いまではないいつか、ジージャーを応援したいと思い立つこととなるだれかの「気付き」を促し、その糧となるのがその役割なんだろうと、勝手に思い込もうとおもいます(笑)。
じゃあ、糧といえるほどの、実のある考察がきちんとなされてるのかなあ、と、考えるなら、ずうずうしいですけど、それは出来ていると思ってるのです。
四六時中、ジージャーのことばかり考えてました。
だから過去だけでなく、事実だけでなく、いろんなことが「見えて」しまう気がしているのです。
話したこともない彼女のキモチとか、痛みとか歓びまで、まるでストーカーのように(笑)容易に想像できてしまいます。
しかもあきれたことに、数年後の先々の姿まで、容易に浮かんでしまいます。
ここまでくるともう、入院ものですね(笑)。
ともあれ、未来はいつも誰かの都合にあわせたイージィーな道筋ばかりを行くものでもなく、優れた才能や必然の機会が埋没してしまうなどということは、実に頻繁に起こっていることでもあるのです。
応援の声というのは、実は、その声を抱こうとするヒトのこころの作業です。
つまり、イメージを生み出し、現実の機会を召還するための儀式なのですね。
誰かの頭のなかで想像されなかったもの、たとえば建設しようと思わなかったビルが偶然に建つということはありませんよね。
これ、言い換えるなら、すべては、ヒトのこころがイメージを抱くというところからはじまっているのだという証明でもあります。
あなたが、ジージャーにこうなってほしい、という思いを強くしないなら、現実もまたジージャーには何も授けてはくれません。
そんなことはない、彼女には実力も才能もあるのだから、と言うでしょうか。
だと思っているのなら、それは間違いですよ。
才能や能力は、実のところ、同じ時代の同じ場所にもいくつもいくつも生れ出でているのです。
そのなかでなお見出され、傑出したものとなり、意義をなすものとなるのは、実は、他者の思いの積層とのシンクロから成り立つものなのです。
イメージ、それこそが武器なのですね。
あなたがジージャーを応援すると決めているのなら、このこと、もう一度、よくよく考えてみる価値があることでしょう。